2024年11月14日( 木 )

九州企業の衰退・勃興 平成を振り返る(1)

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「大都市・福岡」が九州の牽引力を固めたのは平成初頭

九州企業の最大の躍進は、ソフトバンク・孫正義氏の例である。まさしく世界に通用する数少ない企業にまでなった。ただし1980(昭和55)年に福岡で設立した後の大半は活動の拠点は東京である。激変時代に適応できずに「衰退・淘汰される企業」もいれば「勃興・大躍進する企業」もいる。その対比した例を挙げていく。加えること平成30年間で2000(平成12)年が質的転換の分水嶺であることを強調する。過去の遺物が払拭され、新時代への諸条件が整備されてきたとみる。

平成の初頭にアジアに向けた交通インフラ整備がなされた

 このシリーズ内でたびたび、触れることになるが、昭和50年3月、山陽新幹線が開通、博多駅が終点になったことにより、都市福岡の地位向上に大きく貢献。対東京、関西に向けての発信力が強化され、九州に睨みをきかせるポジションを得ることになった。また高速道路の開通が福岡の都市力を一層高めた。ただ、交通の利便性は福岡を拠点にした地場卸業(たとえば繊維卸業)の衰退を招くことにつながった。詳しくは後述する。

 昭和50年代前半に国内交通の要所が整備され、現在に至る基盤を築く。昭和60年代になって福岡は『アジアの玄関口』と呼ばれるようになった。しかし、まだ中身は伴っていなかった。ソウル・台湾・香港・シンガポール便は細々とではあるが存在したものの、まずは国際空港路線の多角化が求められていた。

 平成元年に福岡~上海虹橋国際空港間の空路が開設された。ここから一挙に上海を筆頭に中国路線が拡大され、そのほかのアジア便も充実していった。空路だけをみれば、ようやく「アジアの玄関口・福岡」を名乗る資格を得たといえるまでになった。

 九州の業務用の港湾は北九州・門司港と評価が定まっていた。ところがヒトもモノも福岡に集中するようになってきた。そこで、博多港の機能性向上が喫緊の課題となる。元来、博多湾は浅さがネックになっていたので、急ピッチで浚渫を敢行した。また香椎パークポートの運用が平成10年を境に始まり、いつの間にかコンテナ扱い量は門司港を追い抜いた。また、プサンとの定期航路(人材往来含む)も拡大されていった。

九州全体から若者を引き寄せる福岡

 筆者は宮崎県出身。我々の世代はあまり福岡に魅力を感じていなかった。都市福岡にはそれだけ牽引力が乏しかったのである。同級生たちで福岡の大学に進学したのは九大か一部、福岡大であった。国立大を除けば、多くの友人たちは東京・大阪の私立大に進学したし、福岡で就職した者は皆無だった。日豊本線で上って小倉で降り、博多に向かう者は稀有であった。

 福岡の魅力の乏しさにも原因があるだろうが、鉄道にも左右される。鹿児島県人がこの博多・福岡でたくさん活躍されているのは鹿児島本線の存在が大きいといえよう。本来は東京、関西に向かうはずだったのが、博多で途中下車した。そこから一族のネットワークが形成されだしたのだ。宮崎県人会に参加すると都城・小林両市の方々が多いし、活躍している。彼らは人吉経由で八代、熊本を辿り、博多に降りていたのだ。

 「雲行きが変わってきたな」と感じだしたのは昭和60年あたりから。「誰々さんの子どもさんが博多に住んでいる。大学2年だ」ということを耳にする機会が増えてきた。福岡に進学する学生が急増しだしたのであろう。縁がある人の子どもたちをよく食事に連れて行ったことを覚えている。

 平成に入ると局面はさらに進む。大学・専門学校への進学ばかりではなく、「誰々さんの子どもさんが福岡で就職している」ということを耳にするようになった。都市福岡が就職口を広げた証である。平成20年前後になるとこちらも齢を取る。田舎の友人たちが「息子、娘の家に遊びにきた」と言って立ち寄るになってきた。子どもたちが家庭を築き、福岡に定住するようになったのだ。

 平成の30年を通じて、都市福岡は宮崎県だけでなく、九州一円から若者を惹きつけるようになった。また企業側から見れば転入者が増えることが、ビジネスチャンスの拡大につながった。

(つづく)

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