九州企業の衰退・勃興 平成を振り返る(15)
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百道浜埋立の成功が都市福岡発展の基礎を築いた~その悲喜こもごものドラマを回想(後)
時代の分かれ目、運不運
汗を拭き拭きようやくヤフオク!ドーム6階にあるスーパーボックスに辿りついた。観戦にはテレビ局の取締役であるDも参加していた。Dは「コダマさん!よく安比に行きましたね」と言い、昔話を始めた。
福岡3点セット事業(球団、ドーム、ホテル)が軌道に乗らない、王監督を招いてもチームが強くならない。そこで中内氏は三顧の礼どころか五顧の礼で盛岡市から高塚猛氏を招いた。同氏は1年目に早速、福岡ダイエーホークスを優勝へと導く。事業でも短期間で黒字に転換させるという実績をあげた。
弊社では2000年から「福岡にまったく縁がない高塚猛氏が、福岡をこれだけ元気にしてくれている。同氏の経営の原点を理解するために盛岡・安比に視察に行こう」というキャチフレーズを掲げ、6回視察ツアーを組んだことがある。とくに盛岡から50km北にある安比高原のリゾートホテルには高塚氏の経営の原点が見事に集積されており、大変勉強になった。D取締役は、そのツアーに参加してくれたのである。6回のツアーで総勢150名を盛岡に案内した(高塚氏は2017年夏、亡くなられた)。
高塚氏が福岡に引き連れてきたEは現在、福岡ソフトバンクホークスで辣腕を振るっている。Eと顔を合わせたので早速、悔しさを伝えた。「三菱地所のマンション現場を通過しながら考えたよ。どうして高塚さんは分譲して資金回収を考えなかったのかな?安比高原でも投資ホテル一室を分譲した実績があるじゃないか」とぶちまけた。「確かにそういう実績はあったが、時代の運不運がある。2000年前後を振り返ってみてください。マンションが売れる環境ではなかったよ」と指摘された。
確かにそうだ。高塚氏は不運だった。2000年から金融監督庁による指導が大きく変わった。わかりやすく説明すると「10年で返済できない長期借入がある企業は一度、清算整理をして再生させる」という指導方向に変わったのである。そこにつけ込んだ禿鷹(ハゲタカ)ファンド=コロニー・キャピタルが3点事業を買い取った。
当時のコロニー・キャピタルは日本でさほどの実績がなかった。そこで、実績を挙げるために高値で引き取ったので、融資していた金融機関は高い配当に驚き、感謝した。
高塚氏は2004年にセクハラ事件をでっち上げられ逮捕された。その後、コロニーは3点事業を売り払って大儲けした。
コロニー・キャピタルは球団経営には無知、無能。引取先を探すことが緊急の課題である。ここに救世主が現れる。かつてダイエーホークスにいたFである。別にコロニーに頼まれたわけではない。自分の意志で柳井氏からソフトバンク・孫氏に繋いでもらったことにより、球団の身売りが促進したそうである。やはり大資本家・孫氏を口説いたのは正解であった。Fは2年ほどソフトバンクホークスのスタッフとして残っていたが、現在は自分で事業を展開している。
「悲喜こもごも」の例を紹介しているが、Fの場合は悲も喜も両方関係なく「福岡に強いプロ球団を置くべきだ」という強い信念の持ち主なのであった。
実力で成果を勝ちとった経営者の面々
百道浜の不動産高騰で、この地区で地上げに奔走した経営者・地方議員がいた。手堅い木質建材屋があったが、いつの日か不動産屋に業種がえしていた。結果、百道浜でビルを建てたが、その後資金をショートさせ倒産し、本社ビルは他人の手にわたってしまった。
ある福岡市市会議員は、あちこちの"不動産転がし″に手を染めて「地上げ屋の市会議員先生」と囁かれていた。一方で経営者がリスクを取って会社を隆々に仕上げた喜の例も数多くある。
スーパーボックス内でいろいろな方々と交流した。そのなかにGの会社の幹部がいた。筆者は「いやぁ、よくまぁ、ホテルシーホークにクラブを出されましたよね。あのころ、私は率直にいって御社は大丈夫かなと思っていました」と具申した。この幹部は笑いながも見解を述べなかった。Gは表面的には温和な風貌であるが、事業には厳しい態度で臨む。ホテルシーホークでの設備投資におけるビジネスの展開でさまざまな人脈を拡大していった。これが現在の事業発展の基礎となっている。
野球観戦終了後、徒歩で8km先にある自宅に帰ることにした。往来からは福岡屈指の観光スポット=福岡タワーが見え、その夜はいつも以上に異彩を放っていた(添付写真参照)。平成初頭に完成したのだが、バブル時代の落とし子で、今では考えられないほどの異常な工事単価で完工された。表現を借りれば関係者が全員、満足した利を得たということになる。この中心人物の1人にガラス業を営む森重孝さんの存在があった。
森氏は、ご存知の通り、ラグビーの新日本製鉄釜石を主将・選手兼監督として日本選手権4連覇に導いた人物である。福岡タワー建設時は、森氏が家業を継ぐために戻ってきた時期であった。関係者たちは「さぁ、お手並み拝見」という姿勢を貫いていたが、福岡タワー建設における森氏の手回しの鮮やかさをみた人々は、やがて森氏を心服するようになった。
歩いているうちに雨が降り始めた。「西新に出るか、藤崎経由にするか」と迷っていると西南学院高校の横に立っていることに気づいた。ふと、福岡銀行のある専務=富重氏を思い出した。富重氏が母校の為に必死で百道浜の土地を確保してくれたのだ。母校の為であり地元トップの福岡銀行の名誉の為にも百道浜事業に大きく関わる証が求められていたのである。
西南学院は取得した不動産をグラウンドとして活用していた。「どうしてあんな外れにグランドを造ったのか?」と陰口をたたく輩もいた。しかし、今となっては「すばらしい買い物であった」と称賛の声が挙がる。西南学院高校は移転し、跡地には西南学院大学の拡張した建物が建設された。
「九州企業の衰退・勃興 平成を振り返る」シリーズをまとめるにあたり、最後に記憶に残る「悲喜こもごものドラマ」をまとめてみた。
(了)
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