平成挽歌―いち雑誌編集者の懺悔録(8)
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フライデー編集長は森岩弘。雑誌全体の流れを掴むのには進行係がいいだろうといわれた。まあそうだろうなと了解した。進行表をつくり、毎朝、各担当者が間違いなく入稿したかを確認して、印刷所に送る仕事である。
最初は、深夜1時2時まで起きて待っていたが、そのうち面倒くさくなり、袋の中に入れておいてくれるよう頼んで、午後11時ごろには仮眠室に入り、朝6時ごろ起き出し、袋の中身を確認して凸版印刷に送り、帰宅した。
中には、朝起きても、まだ原稿とニラメッコしているのがいる。丁寧なのはいいが限度というものがある。たしかに、その編集者が手を入れると原稿はよくなるのだが、写真誌は写真がメインで、文章は付け足しである。たかだか70~80行程度のものに、朝まで直しを入れる気が知れない。そいつのところに行き、原稿を取り上げて読んで、こことここを直せと指示し、自分で印刷所に送っておいてくれといい残し、帰ってしまったことも何度かあった。
私は、現役時代、原稿は1回しか読まなかった。そのかわり、集中して読んだから、電話だと呼ばれても気付かない。ダメな原稿は、それを書いたライターのところへ行き、目の前で破り捨てたことが何回もある。
後年、そのライターたちに会うと、「あの時は殺してやろうと思った」といわれた。だが、編集者は原稿が読めることが第一。人脈がどんなに多かろうと、大作家に気に入られていようが、そんなものはオマケである。
夏も過ぎようとしていた。講談社の編集長人事は6月である。進行係のまま来年6月というのは冗談じゃない。だが、鈴木役員は何もいわない。この人、そういうことには無頓着な人である。
だいぶ後の話になるが、週刊現代編集長(部長)が長くなったので、「そろそろ局長兼任にしてくださいよ」といったことがある。鈴木役員は「会社は今、編集長と局長を兼任させない方針だ」というのだ。
だが、調べたら兼任がゾロゾロいるではないか。鈴木役員に「こんなにいるじゃないですか」と談じ込むと、「そうだったかな」ととぼけた返事が返ってきた。ようやく編集長兼局長になるのだが、部下から要求して局長になったのは、講談社では私だけだろう。
何度か、45歳の誕生日前には編集長にしてくださいよと鈴木にはいっていた。たしか11月の半ばだったと記憶しているが、ようやく編集長の辞令が下りた。
社内に辞令が発表されると、あちこちの部署で「元木WHO?」という声が上がったそうだ。他社の編集者には知られていたが、同期とも同僚ともほとんどつるまなかったから、たしかに私の社内での知名度は低かった。
編集部員が30数名、カメラ、記者を入れると100人を超える大所帯である。部数も、たけし事件で190万部から急落したとはいえ、実売60万部ぐらいはあったのではないか。
しかし、問題山積の編集部だった。たけし事件以来、多くの部員が、こんな部署から早く異動させてくれと、私のところへいいに来るのである。
部数が落ち、世間から白い目で見られている編集部というのは、活気もないし部屋全体がどんよりとして暗い。
今でも覚えているが、就任初日、記者が新宿で呑んでいて、タクシーに乗ろうとして運転手と口論になった。記者は、酔いに任せてクルマを蹴飛ばし、怒った運転手は警察へ駆け込んだ。
このままいけば、小さな囲み記事だろうが、翌日の新聞に「あのフライデーの記者がタクシーに暴行」などと書かれるに違いない。すぐに、編集者を現地へ行かせ、運転手とカネで話をつけてくれと頼んだ。初日からヤレヤレである。
当時、一番問題だったのは、「フライデーを持っていると恥ずかしい」という声が多かったことだった。部員に頼んで、女子大生や若いOLたちに集まってもらって話を聞いた。そこでも、フライデーを電車の中で持っていると、変な目で見られるという意見が多く聞かれた。
そこでまず、見た目を変えようと、見開きページの下にあった、「見ちゃった、見ちゃった」という下品なヒゲ親父マークや占いを取っ払い、写真を断ち切りで使えるようにした。写真を見開き一杯に使えるから迫力が出る。
表紙は白と赤を週ごとに変え、外国通信社からの写真を使っていたのを止めて、話題の人物や人気のアイドルや女優を表紙に起用した。
タイトル・ロゴも変更した。FRIDAYを、FRIを大きくしてDAYをその下に小さく入れた。「これじゃFRIとしか読めない」という声は無視した(現在もロゴは当時のままである)。
新聞広告には毎号、「ニュース写真週刊誌」と謳って、ニュース面を多くした。
それまでは写真が無ければやらないというのが基本だった。
私が編集長に就任する少し前、フライデーで掲載した「人面魚」というのが話題になった。たしかに写真誌ならではの見て面白いスクープだった。だが、こういう写真を毎号、全ページに掲載することなどできはしない。
絵にならないものは取り上げないのでは、その週の大きな出来事も載せられないことがある。編集部員には、これからはニュースと記事中心でいく、写真はそれに合わせたものを探せと宣言した。
若い部員から、「うちは写真誌ですよ」という声が出たが、これも無視した。
ノンフィクション・ライターたちに取材をしてもらって、多いときは6ページを使ってフォト・ノンフィクションのページをつくった。
一番覚えているのは、1991年に長崎県の雲仙普賢岳が噴火した時、ノンフィクション・ライターの鎌田慧と編集部員の古賀義章を派遣し、ルポしてもらったことがあった。
それは「『死の街』島原絶望地帯を往く」(8/2号)というタイトルで掲載した。ところが発売直後、読売新聞が朝刊6段抜きで、「『雲仙』立ち入り禁止区域をルポ『フライデー』掲載 警察が事情聴取へ」と書いたのだ。
読売の記者が県警ヘタレ込んだのである。記事は、「帰りたくても帰宅できない警戒区域内の住民の心情を逆なですることにもなり……」とあった。
飛んで火に入るである。新聞とは喧嘩慣れしている私と鎌田は待ってましたと、早速反論した。鎌田は、「僕の記事は被害者の要望を伝えたもので、心情を逆なでされた住民はいない。『逆なでされた』と思ったのは読売の記者なわけで、これはでっちあげといってもよい」書いた。
われわれの姿勢は、フリーの記者や雑誌は、新聞記者が取材しない領域を取材することにこそ存在理由があるというのものだ。
鎌田は書類送検されたが、当然ながら不起訴処分になった。理由は、「悪質な行為のない報道目的である」というものだった。
鎌田のほかに、立松和平に「環境汚染ルポ」、伊集院静に「武豊論」。ほかにも嵐山光三郎、安部譲二、荻野アンナ、朝倉喬司などを起用してルポを書いてもらった。
フライデー最大の売り物は、毎号のように載っている、芸能人の密会や不倫などの張り込みネタである。大変な時間と労力を使う仕事だが、当時は、このために生まれて来たのではないかという「全身張り込み人間」が何人かいた。仙波久幸、藤谷英志、乾智之たちである。
毎週10件近くのネタを追いかけていたのではないか。“獲物”を追いかける時は、クルマを乗り換え、途中からバイク班がそれに加わり、追いかけ続ける。逃げおおせる芸能人はいなかった。
その週、どんなネタが上がってくるのか、編集長にもギリギリまで教えない。火曜日の夕方、張り込み班の一人が、私のところに寄ってきて、「別室においでください」と囁く。
机の上に何枚か写真が並べられている。私は、若いタレントやアイドルは知らないから、彼らが、この写真は誰々で、こういうところが売りですと教えてくれる。
それを聞きながら写真を選ぶ。タイトルをつける。それが編集長の最大の仕事だった。
就任する時、会社から頼まれていたことがあった。フライデーは水曜日校了だから、土曜、日曜も出社することが多い。私が進行係をしていた時も、土曜日の夕方に副編集長以上の会議が毎週あった。
会社側は、土、日が休みじゃないのはフライデーだけだ、何とかして週末を休みにしてくれというのである。これは難問だった。部内からも、土、日はカラーページの入稿だから不可能だという声が若い奴から上がった。
だが、「若いうちはいいが、結婚して子どもができると、日曜日は休みたくなるものだ」といい、これも強引に、「カラーは金曜日に入稿」と決め、押し切った。
就任半年で、部数は好調に推移し、夏の合併号では実売90万部までに回復したのである。
しかし、この合併号で、ワイドショーを賑わせた「幸福の科学事件」が起こるのである。
(文中敬称略=続く)
<プロフィール>
元木 昌彦(もとき・まさひこ)
ジャーナリスト
1945年生まれ。講談社で『フライデー』『週刊現代』『Web現代』の編集長を歴任。講談社を定年後に市民メディア『オーマイニュース』編集長・社長。
現在は『インターネット報道協会』代表理事。元上智大学、明治学院大学、大正大学などで非常勤講師。
主な著書に『編集者の学校』(講談社編著)『週刊誌は死なず』(朝日新聞出版)『「週刊現代」編集長戦記』(イーストプレス)『現代の“見えざる手”』(人間の科学社新社)などがある。連載
□J-CASTの元木昌彦の深読み週刊誌
□プレジデント・オンライン
□『エルネオス』メディアを考える旅
□『マガジンX』元木昌彦の一刀両断
□日刊サイゾー「元木昌彦の『週刊誌スクープ大賞』」【平成挽歌―いち雑誌編集者の懺悔録】の記事一覧
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