貝原益軒「養生訓」と現代医学を融合「元気に100歳」を社会運動に(前)
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原土井病院理事長・「元気100倶楽部」会長 原 寛 氏
原土井病院理事長・原寛氏は、2000年に日野原重明氏(聖路加国際病院名誉院長)が立ち上げた「新老人の会」の流れを汲み、2017年の日野原氏の死後、氏の教えと貝原益軒の「養生訓」を融合して独自の「現代養生学」を提唱。2018年に「人生百年時代」と「元気に100歳まで長生き」の2つの意味を込めた市民団体「元気100倶楽部」を福岡市で設立。87歳で現役病院経営者としての顔をもちながら、健康長寿運動に奔走中だ。そのエネルギー源は何なのか。
原家の先祖は400年間、博多に生きた藩医「原三信」
原家のルーツをたどると、約400年前の江戸時代初期から福岡藩主・黒田家に仕える藩医である。子孫は代々「三信」を襲名している。
六代三信は、長崎出島で西洋医学を学び、オランダ商館の医師から「阿蘭陀外科免状」を授けられた。また長崎滞在中に、オランダで出版されたドイツ人レメリンの人体解剖書「小宇宙鑑」の翻訳書の写本を作成している。小宇宙鑑は、杉田玄白らが翻訳した「解体新書」より93年も早かった。外科免状や解剖書翻訳写本は、「一子相伝、門外不出」として代々受け継がれている。また、十三代三信は明治時代に福岡で最初の私立病院を創設するなど、福岡で「原三信」は伝統ある医家としてよく知られている。
原寛氏の父・實(みのる・旧姓佐野)は、旧制第一高等学校時代に原三信の婿養子の原志免太郎医師と静岡で出会い、医師志望であることを話すと、福岡の十三代三信を訪ねて行くよう勧められた。福岡にやってきた實氏は三信本家から九州帝国大学医科大学(現・九州大学医学部)へ通って医師免許を取得。三女ヒデの婿養子に迎えられた。
實氏は満州事変前年の1930年に福岡市天神で小児科病院を開設。戦災で全焼したものの、戦後1955年に結核病院を開設することにした。
父の病院開設に奔走、自らも医学の道へ進む
戦後は結核が国民病と言われた時代で、原家も福岡市南区若久に結核病院をつくることになったのだが、父が病弱だったことと、長男はすでに医師になり、二男も医学部に入って勉強中だった。そこで当時大学生だった三男の寛氏が事務長役として建設工事から資金繰り、役所の手続きまで奔走した。寛氏自身は医師になる気持ちはなかったが、この経験から父や兄たちと同じ医学の道へ進む決意をした。
理科から九大医学部へ進学、1963年、31歳の時に医師免許を取得した。その後、父の病院開設の経験を生かして、35歳で現在地の福岡市東区土井に原土井病院をつくった。当初は精神科だったが、日本は高齢化社会となり、老人人口が増えてきたため、高齢者医療へシフトチェンジ。1985年に精神科病床を廃止して403床すべてを一般病床に変更し、老人デイケアの開設、リハビリテーション棟の建設などを進めた。そして昭和の終わりの1988年には、現在と同じ規模の556床に達し、高齢社会の要請に十分に応えられる「原土井病院グループ」の基礎をつくりあげた。
(つづく)
【本島 洋】<プロフィール>
原 寛(はら・ひろし)
1932年福岡市生まれ。1963年九州大学医学部卒業後、勤務医を経て1968年、35歳で市内東区に「原土井病院」を開設、理事長に就任する。1975年原看護専門学校を設立。高齢者医療一筋に東区の拠点病院として発展させる。現在556床。2005年(福)「多々良福祉会」理事長。2006年、74歳で病院長職を退き現場と一線を画す。一方、故・日野原重明氏(聖路加国際病院名誉院長、105歳で死去)が2000年に立ち上げた「新老人の会」に共鳴。翌年、全国第1号となる九州支部を設立し、以来九州のリーダー役として活躍。毎年1回日野原先生を招いて福岡市でフォーラムを開催。2017年の日野原氏死去後は、遺志を継いで2018年に市民団体「元気100倶楽部」を立ち上げ、講演・出版など健康長寿運動に奔走中。主な著書に「博多に生きた藩医」「原三信と日本最古の翻訳解剖書」「新老人のすすめ」「人生100年時代の養生学」「現代養生学」「新・養生訓」「チャレンジ! 私の人生百年計画」など多数。87歳。関連記事
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