貝原益軒「養生訓」と現代医学を融合「元気に100歳」を社会運動に(中)
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原土井病院理事長・「元気100倶楽部」会長 原 寛 氏
大きな転機となった日野原重明氏との出会い
原氏の後半人生のターニングポイントになったのが、当時東京の聖加国際病院院長だった日野原重明氏との出会いだった。
元号が昭和から平成に変わった1989年、医療関係者の間では雲の上のような存在だった日野原氏から、「音楽療法の研究会をそちらの病院でやりたい」と突然連絡が入った。
原土井病院では認知症の治療法の1つとして、音楽療法の取り組みを行っていて、訪れた日野原氏に会った原氏の第一印象は「大先生なのに気さくな方だなぁ」というものだった。原氏は看護師養成のため自前の専門学校をつくっていたため、その後も看護教育でアドバイスをいただくなど交流が続いた。
そんななか、2000年に講演で福岡市を訪れた日野原氏が「東京で新老人の会を立ち上げました。日本はこれから急速に老人が増えていきます。そんな人たちを何とか元気にしたいのです」と熱く語った。長年高齢者医療に携わって同じ思いをもっていた原氏も、その場で「早速九州でも支部をつくりましょう」と答え、精力的に九州各県で賛同人を募り、1年後に全国第1号となる九州支部を誕生させた。
自身の病気の体験も新老人運動傾注の要因に
自身の病気体験も、日野原氏の新老人運動に傾注する大きな原因だった。
原土井病院を開設してから5年後の1972年(40歳)から、肝炎で常に体のだるさに悩まされるようになった。アルコールとタバコは止めたものの、病院が発展していく過程でゆっくり治療する暇はなかった。そんな状況が17年間続いた後、初めてC型肝炎とわかりインターフェロン治療を受け、約3年がかりで治癒した。
ところが7年後の1999年(67歳)には約3cmの肝臓がんが見つかった。肝硬変から肝臓がんになったようだが、幸い転移はなく、九大病院で同級生の外科医の執刀によって切除手術を受け、今も再発はない。日野原氏から新老人の会の話を聞いたのは、がん手術の翌年であり、原氏がその後の活動に一層傾注するきっかけとなった。
原氏は九州支部設立から3年後の2006年、74歳の時に院長職を退き理事長として経営だけに携わることにした。以来、新老人の会の活動により重点を置けるようになり、日野原氏と同行する機会が増えた。
「新老人の会」の使命は自立した高齢者になること
新しい老人の生き方を追求する「新老人の会」は、高齢者の権利を守ってもらおうとか、手厚く擁護してもらおうとかいう活動ではない。「愛し愛されること」「創(はじ)めること」「耐えること」の3つのスローガンを掲げ、戦争体験者として過ちを二度と繰り返さないために「子どもたちに平和と愛の大切さを伝えること」を使命とした。
また、65歳以上が高齢者という日本の定義を見直す動きが最近あるが、この定義は約60年前に国連が決めた時代遅れの物差しで、日野原氏はすでに19年前に会員の入会資格を「75歳以上」と定めていた。原氏は九州支部設立以来、元気で自立した"新老人"を増やす活動を続け、九州でも沖縄を含む各県に次々と支部を誕生させ、10年後の2011年に九州支部は福岡支部に名称変更した。
(つづく)
【本島 洋】<プロフィール>
原 寛(はら・ひろし)
1932年福岡市生まれ。1963年九州大学医学部卒業後、勤務医を経て1968年、35歳で市内東区に「原土井病院」を開設、理事長に就任する。1975年原看護専門学校を設立。高齢者医療一筋に東区の拠点病院として発展させる。現在556床。2005年(福)「多々良福祉会」理事長。2006年、74歳で病院長職を退き現場と一線を画す。一方、故・日野原重明氏(聖路加国際病院名誉院長、105歳で死去)が2000年に立ち上げた「新老人の会」に共鳴。翌年、全国第1号となる九州支部を設立し、以来九州のリーダー役として活躍。毎年1回日野原先生を招いて福岡市でフォーラムを開催。2017年の日野原氏死去後は、遺志を継いで2018年に市民団体「元気100倶楽部」を立ち上げ、講演・出版など健康長寿運動に奔走中。主な著書に「博多に生きた藩医」「原三信と日本最古の翻訳解剖書」「新老人のすすめ」「人生100年時代の養生学」「現代養生学」「新・養生訓」「チャレンジ! 私の人生百年計画」など多数。87歳。関連記事
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