野村克也元監督の訃報について~ホークスがコメント
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福岡ソフトバンクホークスは、2月11日に亡くなった野村克也氏に対するコメントを発表した。
ホークスは、「福岡ソフトバンクホークス一同、偉大なるOB・野村克也元監督のご冥福をお祈りいたします」とコメント。同じ時代を選手・監督として競い合った王貞治会長のほか、工藤公康監督、甲斐拓也選手のコメントが紹介されている。
野村氏は1954年、京都府立峰山高校からソフトバンクホークスの前身である南海ホークスにテスト生として入団。入団3年目の56年以降、正捕手に定着し、61年から8年連続でホームラン王、65年には戦後初の三冠王に輝いた。打者としての読みもさることながら、捕手としての駆け引きにも長けており、データを駆使した配球や、「ささやき戦術」に代表される心理戦を用い、各球団の主力バッターを抑え込んだ。70年からは監督業を兼任。同年に2000本安打を達成し、72年には打点王を獲得するなど、長きにわたり攻守における中心的選手として活躍した。
監督としても、73年に南海をパ・リーグ優勝へ導いたほか、今でこそ当たり前となった先発・中継ぎ・抑えの「投手分業制」を確立。また、当時阪急ブレーブスの1番打者で「世界の盗塁王」こと福本豊の盗塁を阻止するために「クイック投法」を考案するなど、プロ野球界の発展に大きく貢献。ヤクルト時代はデータを重視するという意味の「ID野球」を掲げてチームの底上げを図り、チームを4度のリーグ優勝、3度の日本一に導いた。ヤクルト退団後は阪神タイガース、東北楽天ゴールデンイーグルスの監督を歴任。前述のID野球をベースに、「野村再生工場」として他球団を戦力外になった選手を再活躍させる育成手腕にも長け、後の主力となる選手を多数育て上げた。
監督業を退いてからは、テレビ解説や講演など各地で精力的に活動。時折ジョークや例え話を交え、ユーモアたっぷりに喋るその会話は「ぼやき」と呼ばれ、数々の語録を残した。皮肉や毒舌を交えた会話は時として物議を醸すことはあったが、晩年は愛情溢れたコメントも多く、世代を超えて愛される存在だった。
突然の訃報にただただ驚きを隠せない。野村氏死去の報を聞き、かつての教え子たちが時折涙ぐみながら話す様子に、こちらもついもらい泣きしてしまった。
【長谷川 大輔】
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