2024年12月22日( 日 )

【昭和のキーパーソン】売血から献血へと時代を変えたノンフィクション作家、故・本田靖春(後)

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ジャーナリスト 元木 昌彦 氏 

本田靖春という人物がいたことを覚えておいでだろうか。読売新聞社会部記者を経て、ノンフィクション作家として活躍。2004年に亡くなるまで数々の作品を残した。その一つ、『誘拐』を下敷きに、作家の奥田英朗氏が著した『罪の轍』をきっかけに今、静かな本田靖春ブームが起きている。読売新聞社会部記者時代に手がけた「黄色い血キャンペーン」が献血制度の確立に貢献したことでも知られる。親交のあった元木昌彦氏が読売時代の足跡を辿る。 

 大蔵省主計局次長に直談判、22台の移動採血車をつくる

 本田さんが悩んだのは、日本人が自らの血を差し出してくれるだろうかということだった。

 だが杞憂に終わった。早稲田の献血学生連盟の学生たちが、本田さんのキャンペーンに呼応して、日赤中央血液銀行のロビーに献血者が溢れているという図を作り出してくれたのである。私も早稲田だが、今の早稲田には、そうしたガッツと行動力を持った学生は少ないが、当時はいたのである。0.5%だった献血が、5月には6.4%になり、10月には10%を突破するのだ。

 厚生省もキャンペーンに押されて、オープン採血を認めることになった。本田さんは、大蔵省の主計局次長のもとに、「移動採血車をつくるための予備費を出してくれ」と直談判に乗り込むのである。

 相手は即座に断る。だが本田さんは、「大蔵省は献血の敵だという原稿を72本書きますよ」という。相手は「恐喝ではないか」と凄む。本田さんは「献血運動が盛り上がっているこの機会を逃したら、日本から売(買)血をなくすことはできない。あなたと私のどちらが正しいか国民に判断してもらおう。予備費は国民の税金なんですから」。相手は厚生省担当の主計官を呼んで何事か話すと、再び本田さんに向いてこういったという。

 「予備費を出しましょう。ただし、厚生省に出すんじゃない。君に出すんだ」

 一般会計から8,500万円が支出され、22台の移動採血車をつくることができたのだ。

 一人の社会部記者が、売血から現在のような献血へと時代を変えたのである。

 後に本田さんは、この時の売血のために肝がんを発症する。だが彼は、「僕の記念メダルだ」と笑っていた。

正力の新聞私物化に一人で異を唱える

 社会部のエース記者は、社主・正力松太郎の新聞“私物化”にも、たった一人で異を唱えた。

 当時、読売新聞の社会面に、正力のその日の動向を伝える「正力物」と呼ばれる欄があった。外国から訪ねてきた客と正力が会ったという、どうでもいい記事を、記者が書かされるのである。

 「社主による紙面の私物化という、公正であるべき報道の大原則に悖る事態が現に進行しているにもかかわらず、社内でだれ一人として批判の声を上げないだらしなさに、心底、煮えくり返る思いがしていたのである」(『拗ね者』)

 正力を批判したからといって、戦前のように、特高警察を差し向け、留置場にぶち込んで、拷問にかけることなどない。

 戦前、戦中、社にいた先輩記者たちは、軍部の台頭を許しただけでなく、戦地の戦況を正確に伝えず、国民を破滅の淵に駆り立てたという罪を背負っている。

 「彼らに、犯した罪の自覚と、そのうえに立った反省があるなら、かち取ったものではなく与えられたものであるにせよ、言論の自由にもっと敏感であるべきではないか。

 私が職場で常に強調していたのは、自分が現に関わっている身内的問題について、言論の自由を行使できない人間が社会ないしは国家の重大問題について、主張すべきことをしっかり主張できるか、ということであった」(同)

 本田さんは読売新聞を去る。38歳だった。彼に付いてくる人間は一人もいなかった。

 生涯、社会部記者と称し、誇りにしていた。本田さんが現役だった時代、社会部は政治部の連中を、記者として認めていなかった。

 「赤坂の料亭で有力政治家にタダ酒を振る舞われ、政局に際しては、その政治家の意に沿った原稿を書く。取材先でコーヒーの一杯もちょうだいしないようおのれを律している私たちからすると、彼らは新聞記者ではない。権力の走狗である」

 これは今も少しも変わっていない。

 彼がいなくなって16年が経つ。本田靖春が命を削って書き遺したジャーナリズムへの「遺言」が読まれているのは、メディアが権力を監視するという役割を果たさず、権力側の「ポチ」に成り下がっているからである。国民は敏感に「メディアの危機」を感じ取っている。知らないのはマスゴミといわれる人間たちのほうである。    

(了)
(文中敬称略) 

<プロフィール>
元木 昌彦(もとき・まさひこ)
1945年生まれ。講談社で『フライデー』『週刊現代』『Web現代』の編集長を歴任。講談社を定年後に市民メディア『オーマイニュース』編集長。現在は『インターネット報道協会』代表理事。上智大学、明治学院大学などでマスコミ論を講義。主な著書に『編集者の学校』(講談社)、『週刊誌は死なず』(朝日新聞出版)、『「週刊現代」編集長戦記』(イーストプレス)、『現代の“見えざる手”』(人間の科学新社)、『野垂れ死に ある講談社・雑誌編集者の回想』(現代書館)などがある。
 

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