2024年11月14日( 木 )

元総合商社駐在員・中川十郎氏の履歴書(25)日系ブラジル人

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日本ビジネスインテリジェンス協会会長・中川十郎氏

1970年代のブラジルブーム

 日本から初のブラジル移民が笠戸丸に乗ってブラジル・サントス港に到着して以来、百数年が経ち、ブラジルの日系人は100万人以上に達している。最近では日本の景気が悪く、来日する日系ブラジル人労動者は減少気味だという。

 筆者がブラジルに滞在していた1970年代はブラジルブームで、日本から500社以上の企業がブラジルに進出し、ブラジルがかつてない脚光を浴びていた。当時、ブラジル連邦議会には日系人議員が数名おり、鉱山動力大臣を歴任した植木茂彬氏など大臣として活躍する日系人もいた。

 戦後にブラジル移民した人々のなかには田舎で農業に従事したり、サンパウロで商業を行って成功したりした人々もいた。ニチメン・ブラジル本店は日本からの駐在員10名、現地日系ブラジル人10名、ブラジル人5名の計25名の大所帯であった。日系ブラジル人は日本語もできて現地での人脈も有するなど、有能な人が多かった。

サンパウロ近郊の農村に面談へ

 筆者の鹿児島の実家の近隣の方のいとこがサンパウロ郊外の農業地帯に移民しているため、会ってほしいとの要望を受けた。会社の運転手が偶然にも鹿児島出身の戦後移民だったこともあり、この運転手の案内で、ある日曜日にサンパウロ近郊の農村に面談に行った。

 「戦後のブラジル移住時代は仕事が大変だったが、やっと農業にも目鼻が付いてきた。しかし日本への一時帰国となると、資金面を考えてもとても想像できない。このままブラジルの土になる覚悟だ」との決意を伝えられた。鹿児島の親戚の近況を伝えると、とても喜ばれた。

 筆者が日本へ帰任する際は、わざわざ遠い郊外からサンパウロまで家族一家で別れの挨拶に来られた。「これが今生の別れと思う。鹿児島の親戚によろしく」と、ブラジルのコーヒーを土産に託された。

日系人が南米で築き上げた軌跡

 サンパウロのガルボンブエノ街には、小間物屋や喫茶店、レストランなど多くの日系人の店が軒を並べていた。日本の本屋もあり、ここでサイマル出版の国際経済、政治、文化関係の本を購入して週末に乱読し、帰国までに2年で100冊の本を読破した。この時の読書が、ニューヨーク駐在後に大学教師へと転身した際に非常に役立った。

 仕事で出張したペルーのリマには日系人の天野氏がペルーのチャンカイ遺跡から出土した品物を展示した「天野博物館」があり、リマに出張する度に見学した。展示品は考古学的にも高い評価を得ており、天野氏の考古学品収集の努力に深い感銘を受けた。

 パナマ、コロンビア、エクアドルの太平洋岸では、日本の縄文の焼き物に類似した土器が出土している。縄文時代には太平洋の黒潮に乗って海を渡ってきた縄文人との交流があったとの説を唱え、研究書も出版しているコロンビアの考古学者に面談したことがある。筆者は、パナマ、コロンビア、エクアドルの骨董店で購入した壺や焼き物を自宅の玄関に飾り、遠い縄文時代の日本と南米の古代人の交流のロマンに思いをはせている。

(つづく)


<プロフィール>
中川 十郎(なかがわ・ じゅうろう)

 鹿児島ラサール高等学校卒。東京外国語大学イタリア学科・国際関係専修課程卒業後、ニチメン(現:双日)入社。海外駐在20年。業務本部米州部長補佐、米国ニチメン・ニューヨーク開発担当副社長、愛知学院大学商学部教授、東京経済大学経営学部教授、同大学院教授、国際貿易、ビジネスコミュニケーション論、グローバルマーケティング研究。2006年4月より日本大学国際関係学部講師(国際マーケティング論、国際経営論入門、経営学原論)、2007年4月より日本大学大学院グローバルビジネス研究科講師(競争と情報、テクノロジーインテリジェンス)

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