バイオ企業・林原の元社長、林原健氏が死去~マスコミを利用した“バイオの寵児”の神話は砂上の楼閣(1)
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全国紙の片隅に載っていた訃報記事に目が止まった。「岡山市のバイオ企業、(株)林原の元社長、林原健(はやしばら・けん)氏が10月13日、急性心筋梗塞のため死去した。78歳だった」とある。
林原氏はかつて“バイオの寵児”ともてはやされたが、それは林原氏とマスコミが一体となってつくり上げた「神話」であった。筆者はそれほどまでにマスコミを利用した経営者を寡聞にして知らない。林原氏の足跡を振り返ってみる。日本経済新聞に『私の履歴書』を連載
林原氏は、メディアを使って自らの神話をつくりあげてきた。
日本経済新聞が2003年6月、1カ月にわたり林原氏の『私の履歴書』を連載したことに経済界は仰天した。大企業の経営者といえども、『私の履歴書』にはそう簡単に声はかからない。それにもかかわらず、非上場企業の経営者が、一流の証とされる『私の履歴書』に、おまけに史上最年少で登場した。異例中の異例のことだった。
林原グループは非上場を理由に財務内容を一切公表せず、その実態はヴェールに包まれていたため、日経が優良会社というお墨付きを与えたと評判になった。以降、「研究開発型の異色企業」が林原の代名詞になった。
VIP専用の迎賓館を新宿歌舞伎町にもつ
林原氏は、マスコミ人らVIP(重要人物)を接待する迎賓館をもっていた。
日本最大の歓楽街、東京・新宿歌舞伎町の裏通りに、地下3階、地上10階建てのガラス張りの構造がむき出しのビルがある。1~5階は光が差し込むように60度に傾くガラス部屋のアトリウム(中庭状の空間)で、6階から上はガラス箱のように張り出している。
林原氏は、英ロイズ本社ビルなどのデザインで知られる世界的な建築家リチャード・ロジャースに設計を依頼し、この「林原第5ビル」は1993年6月に竣工した。バイオ(生物工学)会社がなぜ歓楽街の歌舞伎町にビルをもつ必要があるのかと不思議に思われたが、林原氏はVIPを接待する迎賓館として使用してきた。京都・嵐山の高級旅館の嵐亭の京料理でおもてなしをして、2次会は歌舞伎町の高級クラブに繰り出した。
2010年2月2日、林原は会社更生法を申請して破綻し、この迎賓館で接待を受けていたマスコミ人の名前が挙がった。有名なテレビキャスターなどテレビ関係者が多かった。
日本経済新聞社系のテレビ東京『カンブリア宮殿』は09年7月27日に「日本一ユニークな会社を知っていますか?」のタイトルで林原グループを取り上げた。作家の村上龍氏による経済トーク番組で、社長の林原健氏、専務の林原靖氏の兄弟がゲストだった。
NHKは、教育テレビ『仕事学のすすめ』で11年2月3日から放送予定だった「世界に発信する独創力、林原健」(計4回)の前日に林原グループが破綻したため、急遽、この放送を取り止めた。ところが、番組案内で誤って林原健氏を紹介する内容を流してしまったため、おわびの字幕を流し、NHK広報局は、「削除すべき番組内容が放送用機器に残っていたことが原因」と釈明に追われた。
現実とオカルトの両方に生きる奇人・変人
林原氏は、マスコミを活用することで、“バイオの寵児”の名声を得た。マスコミはなぜ林原氏に飛びついたのか。現実とオカルト(超能力)の両方に生きる奇人・変人のキャラクターに魅せられたためだろう。
林原氏は1942年1月12日、岡山市に生まれた。『私の履歴書』では、少し変わった子であったかもしれない、と少年時代を振り返っている。
時折、私にはいわゆる幽霊や死んだ人が見えるということがあって、周囲の人に「あそこに人が立っているけど・・・」などと尋ね、怪訝な顔をされたことがあった。誰にも見えているものと思っていたのが、自分しか見えないとわかったのは小学4年生の時である。以来、人には一切しゃべらなくなったが、このときに見えたものを「知りたい、解明したい」という気持ちはずっと残った
「誰もやらないことを研究し、競争しない」
「研究に予算を設けず、必要なだけ使う」
「目先の利益を追わない」
「市場調査をしない」このように奇人、変人といわれる林原氏の語録は、経営の常識では推し測ることができない。子ども時代の特異な資質が色濃く投影されており、それが人を惹きつける魅力であったようだ。
(つづく)
【森村 和男】
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