バイオ企業・林原の元社長、林原健氏が死去~マスコミを利用した“バイオの寵児”の神話は砂上の楼閣(2)
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全国紙の片隅に載っていた訃報記事に目が止まった。「岡山市のバイオ企業、(株)林原の元社長、林原健(はやしばら・けん)氏が10月13日、急性心筋梗塞のため死去した。78歳だった」とある。
林原氏はかつて“バイオの寵児”ともてはやされたが、それは林原氏とマスコミが一体となってつくり上げた「神話」であった。筆者はそれほどまでにマスコミを利用した経営者を寡聞にして知らない。林原氏の足跡を振り返ってみる。19歳で家業を引き継ぐ
林原の創業は1883(明治16)年。初代の林原克太郎氏が岡山市で林原商店を掲げて、水あめの製造を始めた。地方の小さな水あめ屋であった林原商店を全国区の企業へと飛翔させたのは、3代目の林原一郎氏である。一郎氏は林原氏の父親で、“中興の祖”と呼ばれる。
一郎氏は経営手腕に長けていた。戦後、人々は甘いものに飢えていた。デンプンでつくった水あめは、菓子や調味料の原料として飛ぶように売れた。事業拡張のために、国鉄(現・JR)駅前の住友通信工業(株)(現・NEC)岡山工場の跡地を買収した。後に、駅前の一等地に化けるその土地の広さは5万m2あった。
“水あめ王”となった一郎氏は1961年4月、52歳の若さで胃がんにより急逝した。長男の林原氏が4代目社長に就任したものの、当時は慶応大学法学部政治学科の2年生になったばかりで、実質的には名前のみの社長であり、仕事は叔父に任せていた。
大学の残り3年間、昼間は空手の練習に明け暮れ、夜は遺伝子組み換え、細胞融合、組織培養などバイオ分野を猛勉強した。学習の方法はオカルト的で、ソビエト連邦が編み出した睡眠学習法を用いていた。眠っている間に、テープレコーダーを回し学習するのだ。
デンプン加工業からデンプン化学工業へ転換
林原氏は64年、慶応大学を卒業し22歳で岡山に戻った。林原のみで約600人、グループ全体で3,000人以上の従業員がいた。
しかし林原グループは当時、崩壊寸前だった。63年8月、原料糖(粗糖)の輸入自由化が決まり、砂糖相場は一気に下落、それに引きずられて、林原が生産するデンプン糖も暴落した。デンプン・水あめメーカーは当時国内に400社ほどあったが、輸入自由化の大波にのみ込まれて、その多くが姿を消した。林原グループも風前の灯であった。
林原氏は結論を出す。66年8月、全社員を前に経営方針を発表した。
「デンプン加工業から脱皮して、デンプン化学工業を創造する道を邁進する」。デンプン糖業界は輸入自由化により、やがて米国企業に席巻されてしまう。他社にできない技術や製品を産み出していかなければ、林原の生き残る道はないと宣言したのだ。
方針を発表してから、社員には正直に、「これからは本業だけに力を入れる。会社が残るかどうかわからない。少しでもよい行き先があれば、見つけて行くべきだ」と言った。同時に、年配の人で、辞めてもらいたい人には「辞めてほしい」とはっきり言った(『私の履歴書』)。
あまりの傲慢な姿勢に、社員の半数近くが辞めていった。健氏は「このときのことだけは大きな悔いが残っている。やはり若気の至り、何も知らなかったのである」(『私の履歴書』)と後悔を綴る。
(つづく)
【森村 和男】
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