良きライバル福岡市前副市長・貞刈厚仁氏*中園政直氏~最後にはどちらが笑うか(1)
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貞刈厚仁・中園政直両氏は2013年4月に同時に福岡市副市長のポストに就いた。高島市長の2~3期目の権力基盤を強固にするために、お互い精魂を尽くして貢献した。持ち味、役割はまったく対照的である。そして再び期を同じくして19年3月をもって2人は副市長を退任する。貞刈氏は(株)博多座代表取締役社長へ、中園氏は博多港ふ頭(株)社長へと、それぞれ駒を進めた。この宿敵・ライバル対決は最終的にどちらに軍配が上がるのか注目される。
福岡市役所での勤務時代、このライバルの職員としての軍配は圧倒的に貞刈氏に上がる。中園氏本人が「福岡市職員時代の貞刈氏に対してライバルと言ったら同僚たちから中園!お前は馬鹿かとなじられるほど、貞刈氏はエリート中のエリートですよ」。故・野村克也氏(野球監督・評論家)の言葉を引用しよう。「長嶋茂雄さんは向日葵、こちらは月見草」ということか。しかし、副市長6年間の評価はイーブンだ(引き分け)。
貞刈 厚仁(さだかり・あつひと)
1977年九州大学経済学部卒業、福岡市役所入庁。福岡市財政局長などを経て、2011年福岡市総務企画局長。13年に渡邊正光らの後任として、福岡市副市長に就任。在任中に宿泊税に関する福岡県の対応を批判するなどした。19年副市長退任。(公財)福岡国際交流協会理事長を経て、同年6月に(株)博多座代表取締役社長に就任。史跡解説ボランティアの貞刈惣一郎は父。
中園 政直(なかぞの・まさなお)
1973年4月福岡大学商学部第二部商学科入学、同年6月福岡市入庁。1977年福岡大学卒業。2006年財政局財政部契約課長、10年住宅都市局住宅部長、12年農林水産局水産部長などを経て、13年に福岡市副市長に就任。19年6月に博多港ふ頭(株)代表取締役社長に就任。
典型的な仕事師、貞刈厚仁氏
筆者は調査員としてのサラリーマン時代(平成初頭)、RKBのスクープ記者・貞刈昭仁氏と昵懇であった。あとで「兄貴が辣腕を振るっている」と聞き、厚仁氏の実弟であることを知った。さて貞刈氏本人のことを触れる。42年間に市職員、副市長として完遂した仕事がたくさんあり、書き残したい気持ちが日々強くなったのであろう。5月に『Ambitious City-福岡市政での42年―』(松影出版)を上梓した。当社でも読者プレゼントとして10冊を進呈している。
この本は地元の出版社としては売行きが好調な部類に入るようだ。もちろん、貞刈氏を持ち上げているのではなく、購入されることを勧める。平成のわずか30年の時間軸で都市福岡が大変貌した。しかし、この変貌の事実は今や福岡の地ゴロの間でさえ忘却の彼方に消えてしまっている。貞刈氏はこの本のなかで見事に描き、まとめているのである。福岡の地ゴロであれば「なるほどなるほど、百道浜埋立事業にはこのような裏話があったのか!」と相槌を打つことばかりだ。
博多リバレイン再建に大鉈を振るう
昨今ではかつて下川端商店街があったことを記憶している人々も少なくなった。商店街を潰して更地の上に現在のビル・ホテルが建設され、通称で博多リバレインと呼ばれるようになった。1999年にオープンしたスーパーブランドシテイが経営破綻し、貞刈氏が金融機関との交渉役を託されて辣腕ぶりを発揮したことがわかる。リバレイン再建のために罵倒された筑紫丘高校の先輩が驚愕していう「貞刈氏のあの使命感の強さには兜を脱ぐ」。
ホテルオークラが一度、倒産したことを知る者も少なくなった。リバレイン博多の再生の道は「生きるか、死ぬか」紙一重であったことがこの本で知ることができる。わずかこの20年の間の話だ。本を読めば、この激動の過程で貞刈氏が一心不乱に活躍する光景が蘇ってくるようだ。貞刈氏はこの博多リバレイン開発で大先輩(福岡市役所)たちが甘い汁を吸ったことの穴も拭かなくてはならなかった。
貞刈氏の仕事ぶりを紹介してきたが、共通していることは誰もが解決しようとして途方に暮れた無理筋の案件ばかりが貞刈氏に投げられてきたのである。嫌な顔をせずにそれらに立ち向かっていった根性はたいしたものだ。このような仕事師は昔においては珍しくなかったが、貞刈氏が最後であっただろう。2013年春、筆者は高島市長筆頭私設秘書に「高島市長を守る職員は貞刈氏しかいない。副市長に抜擢すべき」と繰り返し進言した。
(つづく)
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