2024年11月23日( 土 )

【縄文道通信第54号】縄文文化―ユートピア論(後)

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(一社)縄文道研究所

 NetIBNewsでは、(一社)縄文道研究所の「縄文道通信」を掲載していく。
 今回は第54号の記事を紹介。

 縄文人は前回紹介した環境において、弓矢、釣り具をつくる原料の黒曜石を、産地の信州、伊豆、神豆島、大分などから全国に流通させていた。装飾文化も栄え、糸魚川、久慈で採取された翡翠や銚子の琥珀が全国に流通していた形跡が確認されている。女性の装飾文化もあったうえに、死者の葬送の象徴の環状列石も存在していた。竪穴式住居に住み、織物文化、土器、土偶づくり、狩猟漁労、採集生活で自給自足の経済圏を形成し、理想的な生活を営んでいた。

 いずれも手の込んだ器用さが求められる物づくりの原点は、縄文文化から存在していたと考えている。このような技術は、言語が発達していないと伝承されない。そのため、文字は発見されていないが、現在判明している4,500語のオノマトペと、ノーム・チョムスキー博士が指摘しているが、すべての民族は脳内に言語能力を有していることから、日本語の原点である大和言葉やオノマトペをふんだんに駆使して意思疎通を図っていたと想像できる。

 見事な美観と迫力のある縄文土器を長期にわたり作成してきた基礎があったため、磁器の製造でも、秀吉が1610年に朝鮮から連れてきた李参平から磁器づくりの技術を素早く習得できた。磁器の生産開始から30年後には欧州の貴族に称賛される伊万里の磁器を輸出し、中国を抜いて世界一の磁器生産国になった。約40年間で、約400万個の伊万里磁器が東インド会社を通じて輸出された。

 ドイツのマイセン磁器は、ザクセン選帝侯が伊万里の磁器を錬金術師ベドガーに研究させて完成。その後、フランスのセーブル窯、オランダのデルフト窯、英国のウエッジウッド窯などに伝搬し、言わばヨーロッパ磁器文明の鏡でもあった。

 さらに物づくりの歴史を見るとポルトガル商人ピントが1543年に種子島に上陸して島津侯に鉄砲を2丁売却したことは良く知られている。その後信長が1575年に長篠の戦いで鉄砲を使用した時点で、日本はすでに世界一の鉄砲生産国(約50万丁とも言われる)になっていた。

 サントリーウイスキーの山崎ブランドは、世界でも本場のスコットランド、英国のウイスキーを超え、もっとも美味と評価されるようになり、値段も最も高く、世界中から引き合いがきて生産が追いつかないと聞く。日本最初のウイスキーはニッカウヰスキーであるが、製造を開始した竹鶴政孝が本場のスコットランドから技術を取り入れ、北海道余市に工場を建設したのが1934年だ。100年も経たないうちに、世界一になったのは、磁器や鉄砲と同じである。

 冒頭で述べたように、日本は縄文時代から「水に恵まれた国」であり、北海道や信州も最高の水を生み出す産地でもある。

 以上、縄文文化を源流として、日本文化の技術的特性や影響力を述べてきたが、縄文時代の基礎があったゆえに、技術的成果に結びついたと考えている。縄文道が提唱するように、縄文時代は自然環境との共生、長期間の平和な生活、母性尊重社会を基盤とした秩序、富の分配の平等性を実現していた。

 人類はユートピアを求めているが、日本人はすでに1万4,000年の縄文時代にユートピアを実現していたと考えられる。新型コロナのなか、農業、漁業の重要性に目覚め、本来の人間の生き方を模索する若者を考えると、「縄文ユートピアに回帰しなさい」と言いたい気持ちになる昨今である。

 ユヴァル・ノア・ハラリ博士が指摘する五感を取り戻し、大地とともに良い空気と水をもつすばらしい日本の地方に回帰して、再生を考えることはすばらしいことと感じる。この意味で、「縄文ユートピア的生き方」が今後、若者や多くのサラリーマン、現役退職者にとっても、これからの人生の生きる目標になる予感がする。

(了)


 Copyright by Jomondo Kenkyuujo

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