『脊振の自然に魅せられて』晩秋の雷山―井原山―三瀬峠縦走(前)
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雷山・井原山の縦走
晩秋の山歩きは人出が少なく、寒さも感じられるが、山好きにとっては良い季節だ。12月3日、脊振の自然を愛する会のM氏を誘い、雷山・井原山を縦走した。
M氏は筆者より3歳上で、来年に80歳を迎える健脚家だ。M氏が以前に、登山ショップの創立記念イベントで行われた、筆者の写真集『脊振讃歌』の講演に来場したことが縁となり、M氏と山の付き合いを始めた。
M氏は、島根県育ちであり、母子家庭で苦労して高校を卒業して、社会人として東京で働いた後、26歳で大学に進学した苦労人である。M氏は、勤務先の社長が大学の入学金、授業料もすべて面倒をみたといい、よほどの人望があるのだろうと感じた。
大学卒業後、私立歯科大の教授にまでなったM氏は山を歩いていても、元大学教授という姿勢を微塵もせず、カメラ好き、酒好きの初老にしか見えない。そのようなM氏になぜか惹かれ、ことあるごとに山に誘い、道標の整備を手伝ってもらっている。
脊振山系の佐賀県側には、三瀬峠―脊振山間の金山脊振林道、三瀬峠―長野峠間の雷山布巻林道と2つの広域林道がある。車が2台あれば、雷山登山口から雷山―井原山を縦走して三瀬峠に下り、雷山登山口に置いた車を取りに戻れば、容易に縦走ができる。この林道を利用すれば、麓の登山口から山頂を目指して登る場合に比べて、苦もなく山頂にたどり着けるのだ。
この日は、三瀬峠にM氏の車を置き、林道を20分ほど走った長野峠に近い雷山登山口に筆者の車を止めた。ここから雷山山頂に向かうコースは30分の登り道が続く。登り道は、杉林のなかに一直線に延びている。一直線の単純な登り道がしばらく続き、ようやく直登を終えると緩い登り道となった。
ここから左右に蛇行し、段差のある山道になる。太ももを大きく上げて歩き続けるため、ストックが役に立った。M氏は山に来る前、早朝に1万歩も歩いてきたといい、筆者は驚いた。そのため、M氏は疲れも少しあったのだろう。筆者は山行きの当日に無駄なエネルギーを消費するウォーキングをしたことはないが、早朝歩きはM氏のルーチンワークなのだろう。
登山道を15分ほど歩いて、ようやく層々岐野(そそぎの)という立て札がある草原に着いた。イノシシが好物のミミズを掘り出したのか、草原には穴がたくさん空いていた。以前は、広い草原にNTTの電波塔が建っていたが、今はない。雷山の裾には、銀色のススキ原が広がっていた。
昭和時代には、ここは英彦山のススキ原と同様に福岡県のスキー場であった。スキーの道具も今ほど立派ではなかった頃であるが、スキー愛好家がスキー板を担いで雪原を登り、わずか200mばかりの傾斜でスキーを楽しんでいた。
筆者らは、コンクリートの避難小屋を左手に見ながら、雷山山頂を目指した。牧歌調の広いススキ原を雷山へ向かって進んでゆく。ねずみ色の雲が山の空を覆い、今にも雨が降りそうであった。雷山は厚い雲の下で沈んだ色合いに見え、人工林と自然林が入り混じった裾野から目線をあげると、山頂付近には晩秋の装いの落葉した木々が見えた。
山頂まで、まっすぐ伸びた登山道が見える。草原のなかの登山道を歩き、振り向くと羽金山やその向こうにある佐賀県の展望が楽しめた。M氏が、後方に小さく見えた。
しばらく歩くと、登山道の脇に鈴なりに赤い実を付けた檀(マユミ)の木が見えた。マユミの花は目立たず、気が付かないほどに地味であるが、冬には赤い実をたくさんつけて、遠くからも見ても目立つ木だ。
マユミはよくしなるため、昔は弓の材料として使われていたが、現代の弓の材料は真竹にヒゴを合わせたものである。マユミは弓道愛好家の筆者にとって、興味深い木である。M氏に「マユミがあるよ」と伝えると、M氏は気づいてカメラを出して写真を撮っていた。
(つづく)
2020年12月10日
脊振の自然を愛する会
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