2024年07月20日( 土 )

これから先10年、20年、世界はどうなるのか(中)

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広嗣まさし(作家)

 新型コロナウイルスが全世界を「麻痺」させている現在、今後の世界を見通すことは難しい。この先の10年は見当がつかないのが、本当のところだ。シナリオをあえて書くとすれば、「世界の分断化が進む」であるが、もしそうであるならば、我々は何をすべきか。「分断化」を肯定的に受けとることしか、なすすべはないのではないか。

 筆者は前回の記事で、「中国はもう一度革命を起こさねばならない」と言ったが、日本も同じである。明治維新の際に福澤諭吉が言ったことがいまだ実現できていないのならば、もう一度それを実現する努力をしなくてはならない。国民1人ひとりが国家という「会社」の株主であり、最終的には「株主」総会で国家の進むべき方向を決めるのだと福澤諭吉は言った。このような発想に国民全体が移行するためには、1人ひとりの意識革命が必要だ。

 ところが、こうした意識革命に必要な教育がまったく行われていない。一方で「個人」、「個性」と言いながら、集団の規律に従う人材しか育てていない。これらが続くと、日本に将来はないも同然であり、10年後には、形は今のままであるが中身が空疎な日本しか残らないだろう。そこからは、何のエネルギーも生まれない。

 日本人が、意識革命を起こそうとした時がある。明治時代の最初の15年である。一方、第二次世界大戦の敗戦後のすさまじい経済成長と技術革新の実現時には、根本的な意識革命は起こらなかった。なぜなら、戦後の民主化はアメリカ主導のものであり、日本人の内部から出たものではなかったためだ。その点が、明治維新とは異なる。

 そうはいっても、戦後の日本は「経済大国=技術大国」となったではないか、という人もあろう。しかし、それがマイナスに影響したことを見逃してはならない。国民全体に「このままでいい」という安易な錯覚が生まれたのである。NHKの大河ドラマは安易に戦国時代ばかりを取り上げるのではなく、日本近代史をさらに掘り下げる方向に転換すべきだ。日本人は岸田秀の『ものぐさ精神分析』を読んで、再出発すべきである。

 一方、世界全体に影響力のあるアメリカは、トランプのような奇才が大統領に選出されること自体が国の勢いを示している。フランスの歴史学者エマニュエル・トッドがいうように、トランプこそは歴史に残る大統領なのだ。トランプの発想はこれまでの政治家と根本的に異なり、鋭い経済感覚と相手を読む力、すなわち優れた商売人のみが持つ才能を発揮してきた。私見を述べると、トランプほど信用に値する政治家はいない。信用こそが商売の鉄則であり、信用できない振る舞いをする中国を糾弾するのは当然である。このような政治家はめったに出ることはなく、今回の選挙でトランプが当選しなかったのは、アメリカのだらしなさの表れと筆者は見ている。そんなことで、プーチン大統領のロシアに対抗できるというのか。

 ロシアは物質的にも人材的にも潜在力をもつ国であり、日本がこの国の事情を知らないのはもったいない話だ。ロシアは日ソ中立条約を破って日本を攻撃し、またスターリンの行いにより「悪」のイメージを世界中に植えつけた。しかし、1970年代までの日本の青年がロシア文学で育ったことを忘れてはならない。モンゴル帝国に数百年支配されたロシアの、ヨーロッパともアジアとも異なる混沌とした性格は、おそらく今後の人類の宝である。

 歴史では強者が勝利するが、進化論は「環境に適応できるものが生き残る」と教えている。「強者」とは、「変化に適応できる者」ということなのだ。人類には、環境変化への適応方法が2種類ある。1つは科学技術を用いる方法。もう1つは、環境を含めた自然体系に合致した哲学や宗教をもつ方法だ。

 前者を用いる国は欧米が代表であり、日本も含めた科学技術の発達した国々がこれを採用している。後者は、インドのように自然秩序に合致した哲学や宗教をもっている国が用いている。インドは科学技術の潜在能力も高く、英語を話す人口も多く、生き残るという点でもっとも強い国である可能性がある。

 イスラム圏は、そうした哲学も宗教ももたないために大きく遅れを取るだろう。中国は本来、自然体系と合致する宗教や哲学をもっていたが、それらを破壊してしまった。加えて、科学技術の根底にある西洋哲学を知らないとあれば、未来をひらく知性が育つ基盤がない。

 インドも、グローバル化の流れのなかで、伝統宗教や伝統哲学を喪失する可能性はある。しかし、現状を見るかぎり、その日が来るのは、はるか先だ。インドは、これまでもそうであったように混沌が続くだろう。混沌こそが生命の源である。

 日本にも、古来の生命信仰が残っていると考える人もいるだろうが、その信仰を代表する神道(神社)は国家の枠組みから自由になっていない。そのため、本当の意味での宗教になれない。明治以前の日本人は神仏習合を宗教として、仏が神と1つになっており、生命を讃える神道だけでなく、死を安らかに受け入れる仏教をもっていた。ところが明治時代になり、その神と仏が分離されてしまった。これによって、日本人は国家イデオロギー以外の価値を忘れてしまった。このままでいけば、日本人の将来は明るくない。

(つづく)

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