【企業研究】三越伊勢丹HD vs J.フロント~王道を歩む三越伊勢丹、脱・百貨店へ突き進む大丸松坂屋(2)
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新型コロナウイルスの感染拡大が個人消費に与えた影響は大きい。テレワークの広がりや外出自粛で都心部の集客力が低下した。百貨店が受けた打撃は大きくて深い。名門百貨店の復活はなるか。(株)三越伊勢丹ホールディングスと、大丸と松坂屋を傘下にもつJ.フロントリテイリング(株)を取り上げる。
「百貨店ごっこ」やめたJ.フロント
脱・百貨店を進めてきたJ.フロントは、とうとう百貨店に見切りをつけた。流通専門紙『日経MJ』(2020年11月29日付)は、『J.フロント、「百貨店ごっこ」やめた』という刺激的な見出しで、心斎橋パルコ開業を報じた。
「J.フロントリテイリングが百貨店をゼロベースでつくり直そうとしている。(11月)20日に大丸心斎橋北館(大阪市)の後継に傘下のパルコを導入。文化やアートを発信するスペースからクリエーターとの交流施設までパルコがもつノウハウを投入し、コロナ下でも『わざわざ行きたくなる』リアル店舗を追求した。隣接する本館は全体の3分の2をテナントに変え、自社運営売り場を大幅に圧縮した。『百貨店ごっこはもうやめた』。大丸最大の旗艦店には強烈なメッセージが込められている」。
ファッションビルの先駆となったパルコは、堤清二氏を総帥とするセゾングループの一角として1969年に1号店「池袋パルコ」を開業。斬新な広告戦略など巧みな情報発信でファッションに敏感な若者の心をつかみ、若者文化の発信基地となった。堤氏が立ち上げた事業のなかで、パルコと無印良品の良品計画がもっとも成功した。
バブル崩壊でセゾングループは解体。パルコは漂流を続けた。イオンとの争奪戦を経て、J.フロントが2012年にパルコを連結子会社に組み入れた。そして20年2月、658億円を投じてTOB(株式公開買い付け)を実施し、完全子会社化した。今後は、既存百貨店を若い人に人気のパルコ化にしていく。
大丸の創業家から再建を託された奥田務氏
脱・百貨店の旗手はJ.フロントの奥田務特別顧問である。1939年10月、三重県津市で生まれた。家業は祖父が興した奥田証券。7つ違いの兄が、トヨタ自動車の社長・会長、日本経団連会長を務めた奥田碩氏。慶應義塾大学法学部を卒業し、64年に大丸に入社した。
「年を重ねたる者にても実績の足らぬか、才知の優れざる者を、先輩々々よりと次第をして役目に任じる事、おおいに悪し。老若新古に関わらず、信の心をたしなみ、才力をそなえたる人物を、ぬきんでて引き上げ、大役を申しつけるべきなり」
大丸の創業家である下村家に伝わる店主の心得である。人材を登用する際、もっとも大切にしなければならない要諦が記されている。
大丸の社長を務めていた下村家12代当主・下村正太郎氏が77年、後任に指名したのは末席常務の奥田務氏だった。取締役に就任して1年9カ月。常務に昇格してからは、わずか9カ月。時に57歳。「ぬきんでて引き上げ、大役を申しつけた」のである。
大丸の業績はどん底だった。60年代には小売日本一を誇り、三越の「東の横綱」と並び「西の横綱」といわれた。それが、高島屋、そごうの出店攻勢の前に劣勢を強いられ、老舗・百貨店は衰退の一途をたどった。
奥田氏はほかの百貨店より一足早く事業構造の改革に乗り出した。主力の百貨店事業ではまず不採算の国内3店舗、海外11店舗を閉鎖。奥田氏がホームグラウンドとしてきた大丸オーストラリアを閉鎖することにためらいはなかった。「1度だけ」と組合に伝え、希望退職を募集し、全従業員のほぼ1割に相当する約800人を削減した。20~30%の値引き販売が恒常化していた外商もシステムを見直した。
奥田改革で、大丸は収益力で国内トップクラスになった。危機感をバネに変革を断行した奥田氏は、大丸復活の狼煙を上げた。
(つづく)
【森村 和男】
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