2024年11月22日( 金 )

【長期連載】ベスト電器 消滅への道(14)ベスト電器を食った女傑

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 ユニード、寿屋、そしてベスト電器。「九州の覇者から全国へ」という野望を抱き、事業拡大に走ったが、いずれも惨憺たる結果に。没落していく企業にはそれなりの理由がある。ベスト電器が繰り広げた“ドラマ”を振り返る。

ベスト電器の衰退

 ベスト電器の衰退が始まったのは、2代目の北田葆光氏が社長に就任してからだというのは、世間で周知されていること。しかし、これは福岡シティ銀行(現・西日本シティ銀行)出身で娘婿の有薗憲一氏が権力を握っていく過程でもある。沖縄や関東などに積極的な出店を実行し、そこに不動産業者、駐車場工事専門業者、内装業者などが群がった。

 その1つが(株)エヌケイという会社だ。エヌケイは北九州市小倉北区に本社をおいていた(有)太平科学の内装部門が独立して(株)太平コーポレーションとして1990年に創業したことが始まり。社長は市野紀子氏。北九州市の某高校出身で器量もよく、ミス北九州になったことがあるというのが本人の自慢だった。

 当時、エヌケイは博多区東比恵にあるコンクリート打ちっぱなしの瀟洒で近代的なビルに福岡市の拠点を構えていた。このビルはO建設が建設し、所有していたものだが、そこに居を構えたこと自体、当時のエヌケイの勢いを物語っていた。

 エヌケイの取り引きの8割近くがベスト電器関連だった。「1社偏重は危ない」と市野社長に指摘する声もあったが、市野社長は「大丈夫。有薗さんがついている」と答えるのが常だった。それでも、大手ゼネコンやスーパーなどにも取引先を拡げる努力をするようになり、最盛期には45億円超の完成工事高を上げるに至った。

 当時、市野社長の日常は博多区にあったハイアット リージェンシー福岡から始まる。喫茶室での打合せ、昼食はホテル自慢のカレーライス。夜は大名の有名店での幹部社員との打合せや中洲でのベストハウジングやベスト電器社員らの接待。市野社長はスタイルもよく、身にまとうものもブランド品がよく似合った。キリリとした顔立ちもさることながら、社員に指示する声も魅力的だったというのが、当時を知る人物の話だ。

 エヌケイ福岡支社の工程表には、ベスト電器の新規出店や改装のスケジュールがずらりと書かれており、支社を訪れる下請業者はエヌケイに、市野社長にどう取り入るか、ますます腐心するようになった。

 しかし、工事費は安くするよう叩かれる。たくさんの業者が東比恵の福岡支社を訪れるが、市野社長から気に入られない会社は門前払いを食うことになる。こうした業者のなかから、恨みのこもった噂が流される。「市野社長は(ベスト電器の)大幹部の女だ」と。たしかに市野社長の威光は、ベスト電器のなかでも際立っていた。リベートとしてかなりの額のお金が有薗氏ら幹部に還流していたと推察される。

 あいにく、このような蜜月関係は長くは続かなかった。家電量販店大手が続々と九州に出店。競争が激化し、ベスト電器にも競争の波が押し寄せることになる。経費の節減が叫ばれるようになると、肥大化した取引額がその検討の対象となる。ベスト電器の取引先業者からリベートを取られたうえに、理不尽な難癖をつけられて切り捨てられたという苦情が当社にも寄せられるようになる。

 この状況では、エヌケイはひとたまりもなかった。ベスト電器のなかに醸成されていた腐った体質に乗って急成長を遂げてきた会社は、実のところ荒海を乗り越えていくスキルを何ももっていなかった。福岡シティ銀行はベスト電器の口利きのため、エヌケイの資金繰りの相談に対して緩やかな対応をしていたが、手のひらを反すようになった。

 このような状況はエヌケイに限ったものではなかった。A社はベスト電器の新規出店にともなう駐車場工事を専門に受け、建物内または屋外に駐車場を建設していた。ベスト電器の担当社員を中洲の高級クラブのVIPルームで接待し、「時には女の子をあてがうこともありました」とA社社長は述懐する。

 しかし、ある日突然、ベスト電器から取引を断られる。A社社長は、「うちはベスト電器が危ないという話があったから、取引高を減らして、新規取引先を開拓していました。だから、被害は抑えられたのですが、あんな会社とはもう二度と取引したくないと思いましたよ。多分エヌケイさんも同じ目に合ったんじゃないですか」という。

 A社長に上層部へのリベートに関して尋ねたが、それには首をかしげるだけだった。ベスト電器という日本一の売上を誇った会社は、すべてがリベートづけ。会社のこのような体質は店頭の社員も影響をおよぼす。顧客に対する乱暴な物言い、修理などの期日の遅れ、社員らの士気の低下。

 ベスト電器の凋落にともない、エヌケイもついに最後の日を迎えることになる。一部、役員の反対意見もあったが2002年4月22日、福岡地裁に準自己破産を申し立てた。この日、3億円の決済資金の目途が立たなかったためだ。そして同6月、14億4,200万円の負債で倒産することになった。

 ベスト電器、ベストハウジング、エヌケイは、循環取引をしているという噂がつきまとったが、エヌケイの倒産によって、すべては闇に葬られてしまった。

 北田光男氏が九州の雄として、築き上げたベスト電器は、その内からシロアリらに食い荒らされた。光男氏の身内らが、拡大路線のもとで業者からのリベートを当然のように受け取り、それを見ていた社員らもおこぼれに預かろうとした。中洲の夜にベスト電器の社員らは酔いしれた。このような企業が長続きするはずもない。

 エヌケイをはじめとする取引先企業らも、不正常な取り引きに手を染めることによって内側から朽ち果てていった。

 栄枯盛衰というのも憚れる。ただただ醜いだけである。

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