2024年11月20日( 水 )

コロナ禍で台湾が世界への協力をアピール!~Taiwan Can Help, Taiwan is helping.(1)

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 新型コロナウイルス感染症対策で、台湾は世界でトップクラスの優等生である。マスク着用やソーシャルディスタンスなどの衛生管理は徹底されているが、テレワーク、オンライン授業もほぼ行われておらず、社会はコロナ前とほとんど変わらずに動いており、経済も好調である。この成功を受けて蔡英文総統の支持率は20%近く上昇した。
 台湾在住歴13年の山本幸男 (一財)台湾協会 台湾連絡事務所長(元 台北市日本工商会・台湾日本人会 総幹事)に台湾の今を聞いた。

(一財)台湾協会 台湾連絡事務所長 山本幸男氏

CDCが設置され、陳時中 衛生福利部長が主任として就任

 ――2019年は台湾から日本へ約500万人、日本から台湾へ約200万人が移動していましたが、20年はそれらがほぼストップしました。コロナ禍の騒動を俯瞰していただけますか。

山本幸男氏
山本幸男氏

 山本 台湾政府は19年12月31日に武漢の「コロナ情報」を入手、中国本土に調査隊を派遣、その報告を聞き、20年1月10日にはさまざまなアクションに着手しました。政府が記者会見を開いたのは1月20日で、同時に中央防疫管理センター(CDC)を設置し、陳時中 衛生福利部長が主任に就任しました。

 CDCは緊急事態に対応する臨時組織ですが、政府は防疫対策の権限を陳部長に集中させることを発表しています。防疫対策は政府総動員でやらなければ対応できないからです。その結果、台湾の21年2月18日現在の新規感染者は2名で、累計感染者数もわずか940名(うち回復886名)、累計死亡者9人です。台湾は新型コロナの防疫対策で、世界のなかでも、ニュージーランドやベトナムなどと並んで、トップクラスの優等生と言われています。

閣僚や主要ポストに民間出身の専門家

 台湾がコロナ対策に成功した原因については各種報道で取り上げられましたが、私は大きく、以下の4つが理由だと考えております。

(1)初動対応(水際対策、隔離の徹底など)が迅速に行われたこと。

(2)徹底した情報公開(記者会見、SNS)が行われ、政府と市民の信頼関係が深まったこと。

記者会見は毎日行われ、陳主任への満足度は74.3%に上りました。誠実な人柄で次期台北市長候補とまで噂されています。

(3)対策組織の中心が、公衆衛生や防疫専門家のプロ集団で構成されたこと。

 マスクの製造、輸送、管理、販売、輸出制限、マップなどを担うマスク国家隊の立ち上げ時には軍や警察も投入されました。台湾では閣僚や主要ポストに多くの民間出身の専門家を招いており、本当に合理的で、すぐに結果を出せる体制づくりといえます。

 派閥間の均衡を取るように、主に国会議員から閣僚を選出する日本と比べると、制度、政治文化としても大きく異なります。陳時中CDC主任を側面からサポートした当時の陳建仁副総統も台湾大学医学部出身(米国ジョンズホプキンズ大学で博士号取得)の公衆衛生専門家で、台湾の最高学術機関である中央研究院の副院長まで務めた人物です。

(4)03年に発生した「SARS(重症急性呼吸器症候群)」の教訓が活きたこと。

 病院封鎖、デマの対応など、準戦時体制にすぐ入ることができました。台湾と日本の大きな違いは民主主義と人権との関わり方にあります。台湾も民主主義ですが、公共性や緊急性がある場合、一定の人権の制限を国民も受け入れています。

 また、常に緊急時に備えた準戦時体制です。今でも毎年1回の空襲警報訓練があり、あまり目立ちませんが街中には防空壕、監視カメラがあり、憲兵隊が主要な駅や空港などには配置されています。しかし、市民は社会や人々を守るためには必要だと考えて受け入れています。警察も上から目線ではなく市民に親しまれており、そのうえで、台湾政府も情報開示や透明性の確保、一般市民の参画を実現できると配慮しています。

日本ではなぜ、水際対策や隔離の徹底が行われなかったのか

 山本 1つ、面白い話があります。台湾人の多くは、1898年に第4代台湾総督の児玉源太郎氏の下で、台湾総督府民政局長に就任した日本人である後藤新平氏(※)に親近感をもっています。台湾では多くの市民は、約125年前、日清戦争後の帰任兵23万人の「大規模検疫」を行って水際作戦を成功させ、伝染病の拡大を阻止した後藤氏の実績をよく知っており、なぜ「日本では水際対策や隔離の徹底が行われなかったのか」と不思議に思っています。

後藤新平の世界史に残る「大規模検疫」
 日清戦争(1894~1895年)が終結して、コレラなどの伝染病が蔓延する中国から23万人を超える兵士が帰国することになり、当時37歳の後藤氏が、世界でも前例のない「大規模検疫事業」の責任者(事務管長)に抜擢された。

 その結果、全国3カ所(似島、彦島、桜島)に大規模検疫所を2カ月で建設、3カ月で687隻23万2,346人の検疫を行い、コレラ感染患者369人などを隔離し、感染拡大を阻止した。死の危機がともなう最前線で、後藤氏はほとんど睡眠をとらず、陣頭指揮を執り続けた。

 当時のドイツ皇帝が「この方面では世界一と自信をもっていたが、この似島(にのしま)の検疫所には負けた」と舌をまいたという話が残っている。

(つづく)

【金木 亮憲】

※:政治家、官僚、医師。第4代台湾総督の児玉源太郎氏のもとで、1898年に総督府民政局長に就任。人材育成に尽力し、建築士や学術研究者を数多く台湾に招聘し、積極的に登用。現在も、後藤の功績は台湾で広く評価・研究されており、数多くの書籍が刊行されている。
1906年には南満州鉄道初代総裁に就任。08年逓信大臣兼鉄道院総裁、拓殖局副総裁、18年外務大臣、20~23年東京市長などを歴任。23年の関東大震災直後には被災した東京の復興のための「帝都復興院」を創設し、リーダーシップを発揮した。


<プロフィール>
山本 幸男氏
(やまもと・ゆきお)
(一財)台湾協会 台湾連絡事務所長。台日産業技術合作促進会 諮詢委員、台湾大学日本研究中心 外部支援コーディネーター、台日文化経済協会理事などを兼任。
 1948年、大阪生まれ。71年、大阪大学経済学部卒業後、三井物産(株)に入社。主に本店非鉄金属部門で中国ビジネスを担当後、79年に会社派遣で北京語言学院に留学。留学後、中国(広州、北京)に着任3回、通算15年間、中国滞在。2008年に台北市日本工商会、台湾日本人会の初の専属総幹事に就任。元(公財)日本漢字能力検定協会 ビジネス日本語能力テスト台湾アドバイザー。

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