【創業30周年】(株)高太~「人との出会いは宝物」高尾平八郎会長、自らの半生を語る(1)
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建設資材販売などを手がける(株)高太(佐賀市)は今年で設立30周年を迎えた。同社の高尾平八郎会長に自らの半生を振り返ってもらった。
野球選手にあこがれた少年時代
(株)高太取締役会長・高尾平八郎氏は1945年9月8日、大分県日田市で男4人・女3人きょうだいの三男として生を受けた。高尾氏の実家は水田6反、畑地2反、山林を保有する専業農家。高尾氏の父は水田を耕して米をつくり、春になると家の前に苗床をつくってナスビとキュウリを育て、夏になるとリヤカーいっぱいのナスビ、キュウリを収穫していた。
母が朝早くに3キロ先にある青果市場に収穫物を運ぶ姿をいつも見ていた高尾少年。あるとき、母が「今日出荷したリヤカー1台分のナスビが6,000円で売れた」と父にうれしそうに語る姿が今でも忘れられないという。
稲の刈り取りが終わる秋になると、広い屋敷の畳をはぎ取って、養蚕用の蚕棚が天井の高さにまで積み上げられる。高尾少年の父と母は大きな籠をかついで山の桑畑に行き、桑の葉を1枚1枚大事に採ってきて、蚕に食べさせた。蚕が大きくなって繭になると、業者が買い取りにきた。
高尾少年の役割は夕方に牛にエサを与え、小川から水を汲んできて、薪でお湯を沸かすことだった。お風呂を沸かすために使う薪は、近くの山に週に1度、1人で採りに行っていた。
小学校高学年のころ、西鉄ライオンズの全盛期だった。野球選手にあこがれていた高尾少年。実家には大きな藁葺(わらぶき)があり、軒先が12~13mあったため、雨の日でも兄とキャッチボールができた。
毎日バケツで水を汲み運んでいたこともあって、肩・足腰が強くなり、速球を投げられるようになり、バッティングも上達。中学校・高校で野球部に入ることが当時の高尾少年の夢だった。しかし、父は野球部に入ると練習で帰宅が遅くなり、家の手伝いができなくなることから野球部への入部に反対。練習時間が短く、早く帰宅できる卓球部への入部を余儀なくされたのであった。
渋々、卓球部に入部した高尾少年だったが、毎日の水汲みで鍛えた体と天性の運動神経により、めきめきと上達。中学3年生のときには、キャプテンとしてチームを引っ張っていった。
高校は大分県屈指の進学校である大分県立日田高校に入学。引き続き卓球部に入部した。同校卓球部の1年先輩には、大分県でベスト8に入るほどの実力者が在籍し、めっぽう強かったことを覚えているという。後に稲尾産業(福岡)で出会うことになるサウスポーの藤波先輩である。
3年生になり、キャプテンに指名されたものの、大分県大会では2回戦止まり。野球部が練習する姿を見つめ、「野球をやりたかったなぁ」と思っていたそうだ。
ちなみに、同校野球部は大分県大会決勝で敗れ、あと一歩のところで甲子園出場を逃すほどの強豪校。高尾少年と同じクラスだった原田君は、同校で2番セカンドの巧打者として活躍。その後、監督として日田林工、藤蔭高校を5度甲子園出場に導いた。
高校3年生の夏、卒業後の進路について考えていた。だが、大学に進学すると4年間で400万円ほどの費用がかかると聞き、朝から晩まで懸命に働く両親に負担をかけたくないとの思いから進学を断念。北九州市八幡東区にあった事務機の販売会社・山下商事への就職を決めた。
(つづく)
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