元福岡市長の故・山崎広太郎氏追悼(5)「政治家・山崎広太郎の遺志を受け継いでいく」加地邦雄・福岡県議会議員
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「なんでもやってみらんね」懐の深いリーダー
山崎広太郎さんと知り合ったのはいまから約30年前、福岡青年会議所の中心メンバーとして活動していたときでした。思い出に残っているのはやはり、一緒にダイエーホークスの誘致運動をさせていただいたことですね。広太郎さんは誘致の中心人物でしたが、若い人の声も柔軟に受け入れられて、そのうえで「まぁとにかく、なんでもやろうや」という懐の深さがありました。こういった事業は最終的には政治の壁が立ちはだかるのですが、それを青年会議所と同じ目線に立って乗り越えようと協力していただいた。それが広太郎さんとのお付き合いの始まりでした。
ダイエーホークスの誘致に成功すると、次はアジア太平洋こども会議です。こども会議はむしろ広太郎さんから私たちに投げかけがあったんですね。広太郎さんは福岡の将来像として「アジアの拠点都市」を目指しておられたんです。そこで、国際化という切り口でアジア太平洋博覧会(よかトピア/1989年)の記念事業として福岡青年会議所として事業を提案してくれと、それが発端でした。そこで青年会議所では3年かけてコンセプトを練り上げて、ホームステイ国際交流事業をやろうと。これも広太郎さんがいなければできなかったことです。
現場で自ら水を運び、汗を流す~知事選では青年会議所が全面バックアップ
広太郎さんの人柄をひとことで表すとすれば、「パワフル」でしょうね。それでいて柔軟性があって、とにかく「なんでもやってみれ」という方でした。もし失敗しても青年会議所は許してもらえるやないか、と(笑)。だから青年会議所として運動をするうえで広太郎さんくらい頼りになった方はいませんでした。
アジア太平洋こども会議では海の中道海浜公園(福岡市東区)でキャンプをしたのですが、じつは事前に「もしかしたら死者が出るかもしれない」と脅されていたんです。真夏の炎天下で3時間もセレモニーをして、随行の大人も含めたら2,000人くらいがキャンプする。しかも風呂はないし水の手配もできるのかどうかわからない。いま県医師会の会長をされている方が当時の会議所メンバーに入っていて、「医者としてみればかなり無謀な企画だ」と忠告されたのです。風呂がないならプールで泳がせようと考えていたんですから、確かに無謀だったかもしれません。
ずいぶん議論もしましたが、そのときに現場の我々と一緒にバケツで水を汲んだりペットボトルの水を運んだりしてくれたのが広太郎さんでした。市議会議長という立場と青年会議所OBという立場で一緒に汗を流していただいた。なかなかできることではありませんよ。
そうしたことが縁で、広太郎さんが知事選に出たときには福岡青年会議所が全面的に応援しました。当時は、熊本県知事だった細川護熙さんがさっそうと国政に登場した時期でした。広太郎さんは「このままでは福岡は熊本に負けてしまう」と危機感をもっておられました。青年会議所のメンバーは、「出るのならば市長でしょう」と一度は反対したんです。それでも情熱的に口角泡を飛ばして「福岡のためにやりたい」と語る広太郎さんの情熱に負けて、じゃあやりましょうと。
このときは、「中央vs福岡青年会議所の戦い」と言われましたが、そんなことはこれまでなかったし、今後もないでしょう。結果としては敗けましたが、当時は電車の中で旗を立てて歩いたり、手分けして県内全域にポスターを貼ったりして福岡青年会議所が一体となって広太郎さんを押し上げました。それくらい恩義を感じていましたから。
育ての親は拓さん、生みの親は広太郎さん
その後私は広太郎さんの後継市議として4年間口説かれたのですが、ずっと断っていたんです。うちの父が田舎で町会議員を長年やっていたので、政治家の家族がいかに大変か身に沁みていたんですね。特にうちの田舎は切った張ったの選挙が当たり前の筑豊ですから、「広太郎さん、私はどんなに落ちぶれても政治家にはなりません」と断り続けた。
福岡地所の榎本会長の勧めもあって結果的には政治の道に進みましたが、広太郎さんが政治の道に導いてくれたのは事実です。その4年後に今度は山崎拓さん(元自民党副総裁)から口説かれて故・高山久生先生(元福岡県議会議長)の後継で県議選に出ることになります。当時は「山山戦争」(註)の時代で、私はそのときに広太郎さんを応援したんです。その1年後に今度は拓さんの推薦で県議に出たものですから大変ですよ。敵が後継になったということで、初めて議会に出たときはどっちを向いても敵という感じで頭が真っ白になりましたから。
振り返ってみれば、育てていただいたのは拓さんだったけれども、導いてもらったのは間違いなく広太郎さんでした。井戸を掘っていただいた恩義は、亡くなられた今でも感じています。後年、広太郎さんからは「お前の人柄に惚れて政治を志せと言ったんだ。だからどんな立場でもまっとうな政治家になってほしい」と声をかけられました。本当に度量の広い方だったんです。
註=1996年の衆院選では、山崎拓氏と山崎広太郎氏が同じ選挙区で立候補した ^
政治家・山崎広太郎の遺志を受け継いでいく
私は政治家には2つのタイプがあると思っています。1つは自分の政治哲学や信条に基づいて理想の社会をつくろうとする方。もう1つは、たとえば私のように最初は政治を志していなかったものの、青年会議所活動のような社会運動を通して政治の必要性を認識して志す人。
私はもちろん後者の人間です。だからこそ広太郎さんの遺志を受け継いで、若い方が情熱をもってまちづくりをしている現場を支えていくつもりです。これは、時間とお金をいただいている「プロのボランティア」である政治家の義務でもあると思います。私が広太郎さんに力になっていただいたように、次は私がその役割を受け継いでいく。あまりにも早すぎる別れは私にとって大きな悲しみですが、広太郎さんの遺志を受け継ぐことで恩返しをしていきたいと思います。
<プロフィール>
加地邦雄(かぢ・くにお)
1969年、福岡県立稲築高校を卒業。73年、大東文化大学経済学部卒業。84年、福岡青年会議所入会。90年に福岡青年会議所の副理事長に就任。第2回アジア太平洋こども会議in福岡実行委員長。95年、福岡市小学生バレーボール連盟会長、97年市立長丘中学校PTA会長。99年、故・高山久生氏の後継として立候補して福岡県議会議員初当選。現在6期連続当選。【データ・マックス編集部】
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