【創業30周年】(株)高太~「人との出会いは宝物」高尾平八郎会長、自らの半生を語る(4)
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建設資材販売などを手がける(株)高太(佐賀市)は今年で設立30周年を迎えた。同社の高尾平八郎会長に自らの半生を振り返ってもらった。
元福岡市長・山崎広太郎氏との出会い
1971年10月に結婚した高尾氏は、坂根課長が住んでいた福岡市南区大池2丁目の築20年超の木造平屋建て3LDKの家を新居とした。この辺りは高台で、西鉄ライオンズの東尾修投手や作家の夏木静子氏が豪邸を新築するなど、とても環境の良い地区だった。
高尾氏がこの地で出会ったのが元福岡市長・山崎広太郎氏。高尾氏は、市議会議員選挙では選挙カーの運転手を務めた。ここで内藤工務店の内藤氏やジェイ・エム・ディ設計の重住氏など、数えきれないほどの出会いがあったという。
会社では新規資材販売の担当者となった。日本合成ゴムの「ローデックス」という商品は、アスファルト合材にアスファルト量の3~4%を混入した合材を使用すると耐久性に優れていた。この「ローデックス」の営業で、メーカー担当者の相原氏とともに福岡・佐賀・長崎の各県、各市町村を回った。その結果、3%以上の勾配がある多くの山間部の県道や市道などで採用されることとなった。メーカー担当者との同行営業ができないときは、1人で佐賀や長崎に泊まりがけの営業に出かけた。壱岐、五島(福江市)などの離島も営業エリアとした。これが高尾氏による「役所営業」の原点である。
福江市の五島舗装に「ローデックス」を納入することになり、飛行機で大村空港から福江に向かった。夕方、五島舗装の社員から「今日泊まりなら、夕食でも一緒にどうか」との誘いがあり、地元の寿司屋で食事をごちそうになった。雲仙市の小浜町にある雲仙舗装では、昼前に訪問すると、必ず昼食をごちそうしてくれた。また近くのホテルに泊まると、「一杯飲みに行かないか」との誘いがあるなど、遠方への出張だったが、楽しく仕事ができたという。
オイルショックを契機に「ローデックス」の販売実績は伸びていった。しかし、上司が替わると出張が多かった高尾氏に対する評価が一変してしまう。飲食代、ゴルフコンペ参加などを相談しても受け入れてもらえず、自腹で参加せざるを得なかった。「こんな上司にはついていけない」と思い、妻に「会社を辞める」と言ったことも何度かあったそうだ。
その年の忘年会が終わり、社宅に帰ろうとしたときに社長から「高尾君、通り道だから一緒に車に乗らないか」と声をかけられた。夜10時ごろ社宅に着くと、社長から「家に寄ってもいいか」と聞かれた。断ることもできず、家に上がってもらった。
社長から「仕事はどうかね」と聞かれ、今までの上司への不満が溜まっていたこともあり、「会社を辞めたいと思います」と答えた。「高尾君、頑張ってくれ。君の時代が必ず来る」。社長のその一言が、高尾氏の人生を大きく変えたという。高尾氏の妻は涙をこらえながら、じっとそのやり取りを見つめていたそうだ。
30歳になり、金属課の宮本課長から「俺の課に移ってこないか」という相談がたびたびあり、その後、金属課へ移動することに。佐賀県を担当してほしいとのことで、国交省、道路、河川、県庁、各土木事務所、県内一円の建設会社の担当となった。
佐賀県内を熟知していたことから、役所や得意先の訪問は苦もなくこなせた。国交省武雄河川事務所で唐津地区松浦川、武雄地区六角水系武雄川などの排水樋門や樋管の新設工事が各地区で発生。基礎杭は三井コンクリート工業(大牟田工場)、杭工事は福岡基礎工業(後に廃業)が施工し、鋼矢板や仮設リース材も納入。唐津方向有料二丈道路、佐賀方面九州道、長崎道がない時代だったことから、朝早く社宅を出て、本社に戻ってくるのは午後6時ごろ。得意先の与信管理、見積、売買台帳の作成などで多忙を極め、帰宅するのは毎日午後9時~10時だった。
県内一円で取引先が増加し、国交省武雄河川事務所管内、六角川、松浦川の元請で結成したゴルフ会「六松会」に入会した高尾氏。2カ月に1度の懇親ゴルフコンペ(約20社)に参加した。そのおかげか、樋門、樋管に使用するコンクリートパイルや鋼矢板などの物件ごとにほぼ受注。大型水門工事では、二重締切鋼矢板リースで1件1,000tクラスを受注し、丸紅建材リースからの出荷が多かった。
(つづく)
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