2024年12月24日( 火 )

【創業30周年】(株)高太~「人との出会いは宝物」高尾平八郎会長、自らの半生を語る(6)

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 建設資材販売などを手がける(株)高太(佐賀市)は今年で設立30周年を迎えた。同社の高尾平八郎会長に自らの半生を振り返ってもらった。

福岡市地下鉄の出入口工事を多数受注

高尾 平八郎 氏

 ある日、佐賀県鹿島市の顧客から、横断歩道橋の階段に用いる30㎝角のゴムが付いた滑り止めタイルを探してほしいとの電話があった。調べてみると、取り扱っているメーカーは、佐渡島金属と吉野理化工業の2社だった。

 さっそく、吉野理化工業大阪支店に電話をすると、支店長・小柳氏から「九州に営業に行っているので、近いうちに御社に寄ります」との返事があった。これが現在の太平洋セメント(株)の子会社・太平洋プレコン工業(株)との出会いである。

 同社の工場は、愛知県一宮市にあり、飯田産業との取引は初めてだった。数年後、福岡市営地下鉄1号線(箱崎~姪の浜、中洲川端~博多駅)駅舎工事のため、小柳氏が来社。大阪の地下鉄の出入口階段では、自社製造のコンクリート2次製品が採用された。コスト削減で福岡市建設局に営業すれば採用される可能性があるとのことだったが、上司の宮本氏は黙って見ていてくれたという。

 設計事務所にも営業をかけた。最初に「大濠公園駅」の発注があり、清水建設と契約(出入口階段4カ所)。下請で、かつて飯田産業の運送部門を担当していた人が、「ぜひ施工(階段取付工事)させてほしい」とのことだった。一部施工が終わると、数日後に「お金がないからすぐに払ってくれ」との相談があった。高尾氏が人づてに聞いた話によると、彼は競艇が好きで後に借金で首がまわらなくなり、自殺したそうだ。

 福岡市が駅舎工事を本格的に発注するようになった。当初は千代県庁口駅、箱崎宮前、馬出九大病院前の工事を受注。高尾氏の兄が経営する工務店が下請けとなった。この工務店では高尾氏の弟も仕事を手伝っており、“匠の技”をもった職人が在籍していた。会社と相談して福岡東区八田にある社宅の1室を借りて宿舎とした。施工図と割付図面の作成はジェイ・エム・ディ設計の重住氏に依頼。元請から承認を得て、吉野理化工業の小柳氏に製造を依頼した。

 10tトラックで製品を納入。現場は、弟が“匠の技”による施工を行っていたので安心して任せられた。朝の打ち合わせ後、佐賀県内で営業、夕方は地下鉄の現場で打ち合わせをして会社に戻るのは毎日午後6時ごろだった。

 天神駅と中洲川端駅は御影石の階段となったため、採用されなかったが、唐人町駅、西新駅、大濠公園駅、藤崎駅、姪浜駅、祇園駅、博多駅の博多口は受注できた。西新駅では、コンコースとホームに貼るテラゾタイルの製造が間に合わないという問題が発生した。

 結局、奥村組からテラゾタイル、出入口階段一式を受注することができて事なきを得た。西新駅の施工は、休み返上で砂・セメントの運搬を手伝った。佐賀県内での鋼管杭、コンクリートパイル、鋼矢板のリース営業をしながら、地下鉄の下請も。業績は上がる一方で、年間7,000万円は稼いでおり、会社側の高尾氏を見る目が変わってきたと感じたそうだ。

 高太創業後の地下鉄関連工事については、鹿島建設が空港線の東比恵駅を受注し、高太が出入口6カ所を施工した。また、地下鉄3号線では7駅の出入口階段工事を受注することができた。鹿島建設、奥村組の各所長からは、「高太さんにお願いして立派な工事ができた」ととても喜んでもらえた。

 1987年春、佐賀営業所の新設が決定。高尾氏が所長に任命された。本社の3階会議室で社員を前にした高尾氏は、「佐賀県には葉隠れ精神という言葉があります。『武士道と云ふは死ぬことと見つけたり』」と挨拶。高尾氏42歳のころで、「自分の時代がきた」と感じていた。

 佐賀女子短期大学で面接して女性事務員を採用。また、本社勤務4年目の前田氏が佐賀に転勤してきた。事務所は佐賀駅前にあるビルの1室。佐賀営業所の業績は順調に伸びていた。

 佐賀営業所が開設した1年後には、元福岡工業大学野球部所属の地元出身の大本氏が入社。前田、大本氏ともに明るいキャラクターで、「元気な社員に恵まれた」と高尾氏は語る。平成に入り、営業3人体制により顧客も増えたことから、中途採用により永田氏を営業職で採用した。

 90年の春ごろ、宮本取締役から「来年は高尾君が取締役候補に挙がるかもしれないよ」と言われたが、高尾氏は特段気にはしていなかったという。

(つづく)

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