『パナマ文書』を超える、山形をめぐる三篇(1)
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金の亡者が蔓延る全世界に、アンチテーゼを突きつけるものが『山形』にあるとみて、同県内を散策した。まず、山形市出身のノンフィクション作家・大山眞人氏の『私の山形論』から紹介する。
独善的「私の山形論」
作夏、両親の法事のため5年ぶりに山形に帰郷し、駅西口にあるホテルに宿泊した。再開発で風景が一変していた。どこか雑然としていたものが取り払われ、すっきりと整備されていた。当然、18歳までいた懐かしい山形をそこに描くことはできない。夜、高校時代の仲間が歓迎会を開いてくれた。驚いたことに、東京や札幌での生活にピリオドを打ち、余生を故郷で暮らすことに決めた友人が数人いた。「やっぱり、最後は山形だべ」と口をそろえた。どの顔も穏やかで、ゆっくりとした時間だけが流れた。
「山形時間」というのがある。沖縄ほどではないが、会議でも、待ち合わせでも見事に5分遅れる。東京のように“きっちりする”ことが苦手なのだ。自分もそうだから、誰も文句を言わない。
大学受験で上京。入学した大学の同級生の考え方から立ち居振る舞いまできっちりとした行動に、尻込みした覚えがある。その年の夏に帰郷。すると、出会う友人の誰もが“東京弁”を使おうとしているのにびっくりした。会話の最後に無理して「さー」を付ける。山形弁もどきに「さー」を付けるのだから、実に奇妙である。「山形弁コンプレックス」がある。だから、都会人を偽装するために、結果として山形を売る。これも山形人の気質である。山形人は「あがすけ」である。お調子者という意味だ。人が来ると、その人をできる限り歓待しようと無理をする。食事がそうだ。自分が楽しむことより、手作りの食事を振る舞うことに生き甲斐を感じるのだ。駅前の蕎麦屋に入ってみるがいい。もり蕎麦の量が半端なく多い。常連になると、「ざる蕎麦は高いから、海苔持参で来なさい。それをもり蕎麦にかければざるになる」と言ってくれる。本当の話である。人が良いのである。「2番目でいい」も山形人らしい言葉である。米、果実、その多くが全国第2位、3位である。現在トップはサクランボ(最近では怪しいが)とラ・フランスくらい。
秋の味覚「芋煮会」は、最低4回は開く。学校で、職場で、町内会で、友人たちなどと。つまり集う、群れる、寄り添う。何かと口実を付けて集まる。「和をもって貴しとする」と言えば格好良いが、実は寂しがり屋なのである。だから一匹狼が少ない。とにかく最上位を目指さない。ほど良いところで落ち着く。スポーツも学力も、何もかもあくせくしない。良い意味で保守的である。何事も中庸なのである。
昭和54年、結婚した私は、母の介護をするために妻と山形に帰った。入ったスーパーマーケットの海産物の棚に、焼いたサメ(焼きフカ)が置いてあるのを見た妻が、「信じられない」という顔をした。妻は播州赤穂の生まれだ。余談だが、彼女が生まれた5月14日は、年に2回ある「大石祭り」(もう1日は“討ち入り”の12月14日)なので、名前に大石良雄の“良”の一字を入れ、“良子”と付けた。隣接し、上杉鷹山の“質素”“節約”精神で有名な米沢藩は吉良方。私は寝首をかかれる覚悟のまま、今日に至っている。その赤穂は魚の宝庫。明石の真ダコを食したときの驚きを、私は今でも忘れない。山に囲まれた山形は、昔から海産物を庄内地方からは最上川を船で運ぶ(舟運)か、仙台から陸送(陸運)するのが常であった。
ちなみに山形市では、“刺身”というとマグロの赤身のことを指す。それも解凍ものだから、赤身と言っても“赤黒い”。ほかの刺身を注文する場合は、「イカの刺身」「たこの刺身」と魚の名前を付け加えて伝える。もともと米と野菜、それに豆腐、麩、コンニャクなどの加工食品が中心に食卓を飾る。だから、食べ物に余り執着しない。私は上京後に餃子の存在を知ったほどだ。
「神戸牛は、米沢牛を宣教師たちが神戸に持っていったもの」と得意げに語る友人がいた。もちろん真偽のほどは定かではない。そう言いながら、そのことを声高に自慢するというわけでもない。「神戸牛の祖先は米沢牛」という矜持を持つだけで満足なのである。全国的に有名な「冷やしラーメン発祥の地」という称号だけで十分なのである。だからというわけでもないが、金儲けには至って呑気だ。私の周囲に大金持ちはいない。事業に成功して名を遂げた練り製品の専門店「紀文」の保芦邦人のような山形県出身の事業家もいるものの、大半は県内で十分で、全国に打って出るような企業人は少ない。最近では、ナノ単位の超極細繊維を開発し、就任挨拶時のオバマ大統領夫人が着たドレスの制作者や、欧州の名車のデザインを手がけるカーデザイナーなども出てきたものの、その人に強い憧れや嫉妬心を燃やすこともない。
山形県といっても、庄内地区(酒田・鶴岡)と村山地区(山形・東根)では気質がまるで違う。置賜(米沢)地区と最上地区(新庄)などとも違う。廃藩置県の際、初代山形県令(現県知事)三島通庸は当初、県庁所在地を酒田に置くことにしていた。北前船で酒田港から最上川を遡って村山地方に関西や北海道の産物を運び、替わりに紅花などを関西に運ぶ舟運事業に力を注いだからだ。しかし、酒田衆は気性が激しいことから身の危険を察知した県令が、気性が穏和な山形に置いたという経緯がある。酒田にはかつて日本一の大地主で豪商の本間一族(「本間様には及びもせぬが せめてなりたや殿様に」という狂歌があるほど)が支配していた。気性の激しい酒田衆は、それが自慢でもあった。
面白い話がある。昭和58年、平均視聴率56.2%を誇ったNHK連続テレビ小説「おしん」が放送されたのを機に、酒田市が酒田駅頭に「おしん像」を建てた。途端に、酒田市民が騒いだ。「顔が似ていない」と。
おしんの子役時代を演じた「小林綾子に似せてつくり直せ」というわけでもない。おしんのモデルは静岡の女性。その一生を脚本家の橋田壽賀子が台本にまとめたもの。有名な両親とおしんとの別れのシーンも大井川ではなく、山形の最上川を選んだに過ぎない。酒田を舞台にしていたとはいえ、何の根拠もない。なのに、酒田市民は“それ”を許さない。
結局、酒田市は「おしん像」をつくり替えた。その商業都市酒田と隣接する文教都市鶴岡は、今でも何事にも激しく優位さを競い、互いに悪口を言い合う。それに比べて山形市民は穏やかだ。昭和60年、夏の高校野球選手権大会「東海大山形vsPL学園」の試合は、7対29(PL学園の最多安打32、最多打率5割9分3厘、最多得点27、最多塁打45は今でも破られていない)という屈辱的な結果となった。それも傷に塩を擦り込むように最終回、「PL学園のピッチャー清原」がコールされる。あまりの結末に、県議会で「どうしてこんなに弱いんだ」と急遽議題に載せたほど。しかし、甲子園勝率全国最下位を自認する山形人には、「こんなもの」と気にするそぶりも見せない。というか、諦めが早いのである。ちなみに、東海大山形のエース藤原君は大阪出身。これも気にしない。
元禄2年、歌人の松尾芭蕉は曾良をともない奥の細道を旅した。新暦6月末に奥州平泉→岩出山→鳴子を通り、山刀伐(なたぎり)峠から出羽国(山形県)に入った。紅花の産地として知られた尾花沢で長逗留後、山寺まで来て、有名な「静(閑)けさや岩にしみいる蝉の声」を詠んでいる。しかし、隣の山形を訪ねていない。現在でも謎のままだ。
当時の山形は、初代出羽の藩主で伊達政宗の伯父、最上義光(よしあき)が没し、お家騒動の後に改易され、寂れた時代であった。計算高い面を隠し持つと言われる芭蕉の目には、魅力のない土地と写ったに違いない。
しかし、何事にも寛容で、「戦わずして勝つ」という英知を働かせ、57万石の大大名に上り詰めた義光の資質が、今日まで営々と受け継がれていると考えてもいい。そののんびりとした田舎くさい風土や気質をよしとしない作家の丸谷才一や元東京都知事の鈴木俊一は、かたくなに山形県生まれを隠し続けたと言われている。昭和20年、空襲を避けるために母の実家のある山形市に疎開した父は、そのまま山形に居つき、東京の演劇を広め、県内各地に素人演劇を興した。でも父は、最後まで生国の岡山を愛し続けた。他国のものも受け入れる懐の広い土地柄でもある。
(写真は現在の山形駅西口付近)
<プロフィール>
大山眞人(おおやま まひと)
1944年山形市生まれ。早大卒。出版社勤務ののち、ノンフィクション作家。主な著作に、『S病院老人病棟の仲間たち』『取締役宝くじ部長』(文藝春秋)『老いてこそ二人で生きたい』『夢のある「終の棲家」を作りたい』(大和書房)『退学者ゼロ高校 須郷昌徳の「これが教育たい!」』(河出書房新社)『克って勝つー田村亮子を育てた男』(自由現代社)『取締役総務部長 奈良坂龍平』(讀賣新聞社)『悪徳商法』(文春新書)『団地が死んでいく』(平凡社新書)『騙されたがる人たち』(近著・講談社)など。関連記事
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