『パナマ文書』を超える、山形をめぐる三篇(3)~米沢・上杉鷹山
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1964年6月のことだった。筆者の母校である高鍋高校を当時の駐日米国大使のエドウィン・ライシャワー氏が表敬訪問し、『偉大な政治家・上杉鷹山』に対する熱弁を振るった。その時に初めて『上杉鷹山』の名前を知ったのだ。この高鍋藩藩主の次男で上杉家へ養子に行き、素晴らしい藩経営をした偉業を聞かされたのである。「江戸時代の田舎の米沢藩でそんな傑物がアメリカで有名となり、我々は郷土の誇りをどうして知らなかったのだろう」と赤面の思いをした。聞くところによると、ケネディ米大統領も上杉鷹山を尊敬していたそうである。
故郷・高鍋の最大の誇るべき偉人は『石井十次先生』と教えられてきた。明治期の慈善事業家だ。1865年、幕末に下級武士の家に生まれた。学業を積んでまず岡山で『孤児院』を開いた。苦労の連続で辛酸を舐めながら、帰郷して社会奉仕を展開したのである。石井十次先生の遺志を引き継ぎ現在、一族が木城町で石井記念友愛社を運営している。石井十次と上杉鷹山が高鍋藩の誇るべき強大な英雄なのである。但し鷹山は高鍋生まれではない。江戸生まれである。高鍋滞在は記録に残されていないようだ。
リーダーの鏡
筆者の故郷=高鍋藩出身・上杉鷹山に関しては無知すぎて、恥ずかしさのあまりに少しは勉強したつもりである。鷹山に関する小説では童門冬二の「小説上杉鷹山」が一番の傑作だと思う。鷹山の概歴をおさらいすると、1751年生まれで上杉家へ養子となる。1767年、16歳で出羽国米沢藩9代目を継ぐ。どうしたことか上杉家は養子が多い。「赤穂浪士」討ち入りの際の上杉藩主も養子であった。
1756年という年は元禄という経済バブルも弾けて、徳川政権の箍が緩む時期に差し掛かっていた。上杉家は大大名意識を捨てきれずに15万石相場の3倍の家臣を抱えていたそうな。藩財政は火の車。現物価価格で勘案すると200億円の借金に悩まされていたという。加えること、米沢藩内で飢饉の発生で農民たちが非常に動揺していた。その最悪の時点で鷹山は9代目を就き、『改革・変革』は待ったなしであった。
鷹山が選択した『改革・変革』の基本は有言実行と自ら律するということであった。まず(1)己が倹約の陣頭指揮と質素な生活のお手本になること。ぼろを着て食べ物やおかずの制限をやる。(2)出入りを明確にしていろいろな意見を聞く。そこからアイデアを利用する。(3)産業を起こす。家臣団の二男、三男には田畑の新規耕作の命令を行った。その産業政策の成果の一段として米沢織、米沢牛があり現在でも稼いでいる。
鷹山がアメリカで人気があるのは、まさしく同国で求められる『理想のリーダーシップ像』にぴったりであったからであろう。鷹山クラスのお手本リーダーが、政治及び経済界にそれぞれ10人ずついれば、日本ももう少し真面目な国になっていたはずだ。米沢市民に景勝は『胆力』を与え、鷹山は『独立心』を投げかけた。巨人二人を慕う市民の動静は上杉神社(米沢城跡地)に訪れると一瞬にしてわかる。
ただし、いかに『胆力』と『独立心』の遺産を継承している米沢市民にも大きな難題が待ち構えている。人口減・過疎問題である。米沢市の合併の連続であった。そのエリア内での最大の人口は95,000人であった。ところが現在、8万7,000人である。若者世代の定着策の成果を挙げるのが緊急課題になっている。米沢の歴史を誇り、品格溢れる情緒を楽しませてくれる雰囲気を残していただきたい。それが銭隠し金々優先の『パナマ文書』に対抗する回答なのだ。
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