『パナマ文書』を超える、山形をめぐる三篇(5)~公益の祖は本間光丘なり
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江戸時代は意外と物流が活発であった
本間家三代目・本間光丘が『公益の祖』と呼ばれるようになった実績に触れる前に、そのバックグラウンド――時代背景を説明する必要がある。本間家は、どのようにして「本間さまには及びもないが、せめてなりたや殿様に」と唄われるようになるまでの発展と権威を築いたのであろうか?
それは、酒田という町の時代発展があったからである。初代・原光の出生は1674年で、ちょうど2年前の1672年に西廻り航路が酒田まで開設された。そこから酒田が西廻りの拠点港になったことで、町の繁栄のスタートになったのである。話は余談になるが、筆者は3年前に佐渡島を訪れた。その佐渡では、西廻り航路で活躍した北前船の造船所跡地を訪れた。そこで保存された北前船を眺めたが、今流に言えば300トンクラスの規模である。北海道江差からスタートして、酒田、佐渡、但馬、石見、長門、下関、備後、大阪までの一航路で『千両儲かる』と言われていたそうである。北前船は倍儲かるので『バイ船』とも囁かれたそうだ。
この造船所跡地に佇みながら、「江戸時代は鎖国と言いながらも、国内での物流の活発さは現代人の感覚をはるかに超えるものだな」と感心したのである。裏を返すと、「この物流ビジネスをうまく操って、豪商の出現の可能性がある」と推論を立てたのだが、日本海沿いには、海運豪商の存在が目立つ。人口増えて食糧確保に奔走する徳川政権
まだ酒田までの西廻り航路が確立されていなかった1639年に、加賀藩三代目藩主の前田利常が、加賀から大阪までの定期航路を開設した。加賀の米を大阪へ送って、商売繁盛を狙ったのである。この三代目の海運業の強化政策の渦中で、金沢には『海の豪商・銭屋五兵衛』という人物が登場する。歌舞伎、芝居では話題になる男であった。『中国、東南アジアへ密貿易で暗躍した』というロマンを振りまいた人物であったが、本間家と対照的な生き様をした商人である。一代で潰えた。
国内が安定するなかで、いかに封建制度の社会といえども、貨幣経済が主流になってくる。そうなると、藩経営も貨幣確保の能力が問われる。地元名産の産業復興、米の大阪での捌きと商売センスが重要になってくる。集積能力と運搬物流に長けることは、死活問題であった。そこから藩と御用達商人との関係が深化していった。
また一方、徳川政権の御膝元・江戸では、人口が雪だるま式に増えていった。1718年の統計人口は43万人と言われている。ところが、統計から抜けている寺院関係者・武士などの関係者を含めると、江戸は倍の90万人の都市であったそうだ。
そうなると、消費地・江戸へ集積させるのに必要な物量が膨張する。大阪から江戸への航路の充実を図るとともに、全国からより多くの物資を集めるための新規航路の開拓が進む。商売欲に釣られた連中が、航路を伸ばすことに命を懸けて挑戦する。1639年、加賀からの西廻りが開設されてから33年後に、ようやく酒田にたどり着いた。この年に、徳川政権から物流改造の依頼を受けていた河村瑞賢が酒田にやって来て、御米置場の設置を行った。酒田から西廻り航路で、当時から有名であった出羽米を中央に運搬する大胆なプロジェクトであった。ここから酒田は、全国から注目を浴びる町になったのである。
酒田の町の急躍進で豪商が続出
酒田の地理的な最大のメリットは、最上川河口に位置しているということであろう。最上川に面した内陸部には、名産の米どころが多いのだ。この米を最上川水運に乗せて、酒田に集荷するのである。瞬く間にコンテナターミナルに変貌した。加えること、西廻りの発進基地である。米や蝦夷の商品だけでなく、酒田周辺の海産物などを容易に集めることが可能だ。記録によると、1683年には2,500艘の船が入港したとされている。一艘平均500トンとして、125万トンの物流がなされたということになる。当時の酒田は、町数49、戸数2,252戸、人口1万2,664人という統計記録が残っている。
初代・原光が生まれる1674年以前でも、酒田は鶴岡藩のトップの商業都市ではあった。だが、西廻り海路の玄関口になってからは、取扱高も比較にならない発展をした。酒田に豪商の類が続出するなかで、「鐙屋(あぶみや)」が断トツであった。この店の繁盛ぶりは、井原西鶴「日本永代蔵」に紹介されている。活況を呈している酒田において、初代・原光は1689年に「新潟屋」として商業を営むようになったのである。
(つづく)
北前船とは
江戸時代から明治時代にかけて、北海道と京都、大阪など西廻り航路を走る、近世物流の大動脈を担った「北前船」。船主が荷主として日本海の各港を寄港し、「買い積み商法」と呼ばれる新しい形態の商売を確立していった。現代風に言うならば、動く商業商社である。日本海側の各港は、その交易品の商いで大きな賑わいを見せた。船は500石から1,500石を積み、1,000石前後を積むものが多かったので「千石船」とも呼ばれた。
成功すれば莫大な利益を生む一方で、失敗すれば大損。さらには、遭難すれば命の危険にさらされ、「板子一枚下は地獄」と言われる危険な航海に挑みながら、新しい時代の交流を築き上げていった。
北海道からはニシン、サケ、昆布などの海産品が運ばれ、代わりに京都の織物、大阪の酒、米、塩、木綿、芸術文化などが、開拓間もない北海道の生活必需品として運ばれ伝わった。とくに春、日本海沿岸にやって来るニシンは、当時本州において多量の肥料を必要とした綿花などの商品作物が普及するに従って、魚の油を絞った粕などの魚肥として大量に消費された。この良質なニシンの肥料としての需要は幕末から明治中期まで増大し、北前船航海最大の交易品となった。
こうして北海道の各港は、北前船交易で賑わい、食はもちろんのこと、嗜好品、民謡、言葉などといった北前船が運ぶ新しい文化の風に、人々は心を躍らせた。その後、明治時代中期になり、汽船の発達や鉄道網、通信の普及など近代化の波に飲まれ、1880年頃から急激に衰退していったが、その足跡は現在も日本海沿岸の港に息づいている。関連記事
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