2024年11月05日( 火 )

『パナマ文書』を超える、山形をめぐる三篇(7)~公益の祖は本間光丘なり

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光丘の功績が讃えられて210年

 福岡では健康食品成金が続出した。『パナマ文書』並みに相続対策でロンドンに逃避したキューサイ創業者・長谷川常雄一党がいる。一度は「会社売却で一党は600億円握った」と驚かれたのだ。だが今や、この一党のことも福岡市民の記憶の片隅に追いやられ、忘れ去られようとしている。やずやは、今回の「パナマ文書関連の報道(租税回避)には関係がない」などとコメントしているが、矢頭美世子会長の対外活動が鈍くなればやずやの存在もいずれ忘れ去られよう(最近、ネット広告を積極的に打っているが)。新日本製薬のオーナー山田英二郎氏も凄まじい不動産増やしを行ったが、世間から忘却の方に追いやられるのは時間の問題だ。公益の功労がないからである。

 この記事の下に神社などの写真を添付した。光丘神社、松林碑の写真である。光丘は1801年、70歳で没した。210年以上前のことである。210年が経っても酒田市民は光丘神社に参り、感謝の意を示しているという。松林碑にも参拝者が多いそうである。光丘の行った防砂林事業がいかに酒田の人々の役に立ってきたか、その証明になっている。全国を見渡してもこれだけの業績を200年が経過しても地元民から尊敬の念を抱かれ続けているケースは稀有である。

光丘神社<

光丘神社

松林碑<

松林碑

光丘文庫<

光丘文庫

山王宮日枝神社<

山王宮日枝神社

公益の見本・砂防林事業

 砂防林事業は初期の段階では本間家の財政を揺るがす恐れがあった。その覚悟を背負いながらも、光丘には彼なりの緻密な事業の計算があった。地元の雇用の場を拡大させて金を回し、基盤を強化するということである。まず砂地でも根を張りやすいぐみ・ねむの木を植えて土台にし、砂地を固めてそのあとに松を植えるというものであった。ところがこのぐみ・ねむはそう数の多い樹木ではない。広い原野や最上川河畔を探し出す担当の現場労働者を5,000人雇用したといわれている。

 さらに吃驚仰天なことに、能登に注文した松苗は200万本というとてつもない数であった。この松苗植え付けの被害を極力、阻止するために空き俵の集荷に奔走した。目標は5万俵である。手持ちではとても足りない。百姓衆に頼んで編んでもらった。百姓衆からみれば特需である。臨時収入の有り難いビジネスが飛び込んできたのだ。俵に砂をつめてそれを積み重ねると俵が腐るころには肥料になる。樹木の根つきがよくなるとの目論見があった。この目論見は見事に当たり、工事を開始して5年後には砂防林事業の第一歩が成功したのである。その後は本間家の事業のなかで植林事業は重要な位置を占めるようになる。

現金を130倍にする

 1750年が過ぎる頃には、全国のどの藩も財政破綻寸前に追い込まれていた。1775年、庄内藩主から直筆の手紙が届いた。「藩の財政の立て直しを行っていただきたい」というものであった。要は、『藩の財務大臣に就く』要請であった。過去に本間家の援助で庄内藩はこれまでのピンチを凌いできた。しかし、徳川幕府の財政も破産寸前状況で各藩への締め付けは過酷であった。譜代といえども酒井・庄内藩は当時、借財が9万両あり、四苦八苦していた(1両13万円とすると117億円)。

 命令を受けた以上、必死で難行へ突進するのが光丘の信条である。「場合によっては酒井家と運命を共にすることになるかもしれない」と覚悟して藩の財政改革に立ち向かった。しかし、この庄内藩の要職にあった人物から妬まれ、その一派から足元を掬われた。その後の経緯は次号で触れるとして、まず、ここでは光丘の経営者としての評価査定をしておこう。下記に資料として添付しているのは光丘が二代目・光寿から引き継いだ財産と光丘が一代で築いた財産である。田地は350俵から1万6,000俵へ50倍に増やしている。現金では1,000両から13万両へ130倍に膨張させているのには驚く。現在の円に換算すると169億円となる。全国長者番付に名を連ねるほどの大地主・大商人になったのである。

(つづく)


siryo

 
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