【コロナで明暗企業(7)】SGホールディングス~親族間の抗争を勝ち抜いてきた創業家の栗和田会長が社長に復帰(2)
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青いしま模様のユニフォームでおなじみの佐川急便を傘下にもつSGホールディングス。新型コロナウイルスの感染拡大で巣ごもり消費が増え、業績が絶好調な同社で衝撃的な人事があった。好業績を花道に引退すると思われていた創業家出身の栗和田榮一会長が社長に復帰する。再々登板だ。親族間の激烈な抗争を勝ち抜いてきた怪物経営者である。
東京佐川急便事件、発端は右翼による竹下氏への“ホメ殺し”封じ
「竹下登センセイは日本一金儲けのうまい政治家です。偉大な政治家、竹下登センセイの新総理擁立に立ち上がろう」。1987年1月ごろから、四国・高松に本拠を置く右翼団体・日本皇民党の街宣車10数台がスピーカーのボリュームをいっぱいに上げて、東京・永田町を駆けずり回った。相手をやたら誉めちぎり、そのイメージダウンを狙う“ホメ殺し”と呼ばれる街宣活動だ。
自民党総裁の後継指名にあたり、中曽根康弘首相から「右翼の動きを止められないようでは後継に指名できない」と釘を刺された竹下氏は、執拗な“ホメ殺し”の攻撃に円形脱毛症になるほど精神的に追い詰められていった。
ところが、日本皇民党の“ホメ殺し”はある日突然、ピタリと止った。その数週間後の10月31日、中曽根裁定を受けて自民党総裁に選ばれた竹下氏は、11月6日に晴れて総理大臣に就任した。
一連の謎が解けるのは、5年後に発覚した東京佐川急便事件である。92年9月22日、商法違反(特別背任)に問われた東京佐川急便元社長・渡辺広康被告らに対する初公判が東京地裁で開かれた。検察は、広域暴力団稲川会の石井進前会長(「前会長」は当時、91年9月に死去)がオーナーだった北祥産業に対する157億円など総額952億円に上る特別背任を認定した。
爆弾が炸裂したのは検察側の冒頭陳述だった。渡辺被告は、「かねて交際のあった政治家」が右翼団体の活動を苦慮していたことを知り、直ちにこの件の解決を稲川会の石井進前会長に依頼して、活動が中止になった。このことが、石井前会長系企業への融資の動機になったと指摘した。
政治家、右翼団体の名前は伏せてあるが、「かねて交際のあった政治家」が金丸信・自民党副総裁であり、「苦慮していた右翼活動」が、87年の自民党総裁選での竹下元首相に対する“ホメ殺し”を指していることは明らかだ。暴力団に流れたカネは、“ホメ殺し”を抑え込んだ謝礼であることを検察が冒頭陳述で指摘したのだ。
暴力団の手を借りて誕生した竹下政権
検察側の冒頭陳述はごく簡単にとどめたが、報道各社は、すでに開示された検事調書を基に、右翼封じの経緯を詳述した渡辺元社長の供述を一斉に報じた。
87年の自民党総裁選挙直前、竹下元首相(当時は自民党幹事長)に対する右翼団体・日本皇民党の攻撃の抑え込みについて、金丸自民党総裁から相談を受けた渡辺元社長は、稲川会の石井進前会長を動かして封じ込めることを勧めた。金丸氏は初めためらったが、最後は「頼んでほしい。今では渡辺社長だけが頼りだ」と了承した。
石井前会長は、竹下氏による田中角栄元首相邸訪問を、攻撃を中止する条件として提示。渡辺元社長は東京プリンスホテルで、竹下、金丸両氏と小沢一郎・元幹事長を交えて協議した。渡辺元社長は三者三様の対応ぶりを供述している。
「『田中邸には先日もうかがったが、面会を拒否された。また面会に行っても同じだ。まったく無様になる。もう総理になれない』と竹下は愚痴った。金丸は涙を流しながら、竹下を励ました。『田中のおやじから“反逆者”と言われながら、みんなが手弁当で、経世会をつくったのは、あんたを総理にするためだ。何を今さらいうんだ』。小沢は何も言わずにおろおろしていた。『もう1回行こう』と衆議が一致」。
87年10月6日午前8時。降りしきる雨のなか、竹下氏は東京・目白の田中邸を訪れた。田中家は竹下氏との面会を拒否。門前払いの一部始終はテレビによって全国に放映された。竹下氏は衆人環視のなかで屈辱を味わったが、その対価は大きかった。竹下氏が晴れて、中曽根康弘氏から自民党総裁に指名されるのは、門前払いを食ってから2週間後のことだった。竹下政権は暴力団の力を借りて誕生した。日本の議会史上類を見ない汚点である。
(つづく)
【森村 和男】
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