ヘルシンキ直行便の光を絶やすな!(9)~日本人の誇り・杉原千畝(後)
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今も杉原が活動している感のする杉原記念館
今、観光の目玉になっている杉原記念館には、日本人が年間7万人訪れるそうな。この記念館は、リトアニア日本領事館として1939年5月に建てられたものである。同時に、杉原は総領事代理として拝命を受けて、カウナスへ赴任する。現在は、杉原千畝についての展示が常設されている。ビザを発給した執務室には、机や棚など当時の様子が再現されている。管理責任者はユダヤ人で丁寧に説明してくれた。
この記念館は高級住宅街の一角にあり、桜に囲まれた日本の風情が漂っていた。訪問した日は8月20日である。杉原の執務室を覗いた。デスクには今でも彼が執務に専念する風景が想像されるのであるが、当日の執務者は写真の通りに福岡商工会議所会頭・礒山誠二氏であった(笑)。
またカウナスには、杉原千畝記念碑もある。杉原が通っていた早稲田大学が2001年10月に建てた。ビリニュス中心部を流れるネリス川近くにあり、植樹された桜は毎年4月下旬から5月上旬に満開になるそうだ。情報収集・分析に熟練した外交マン
杉原のことを、単なる博愛主義者とだけ考えると間違いを起こす。情報収集・分析に関しては、外務省きっての熟練アナリストであったと言われる。外務省の歴代の優秀な情報分析官は、佐藤優か杉原千畝と評価が定まっている。杉原は、1900年1月1日、岐阜県八百津町に生まれた。親父は山の中の医者であった。親の希望は「千畝には医者になってもらいたい」だったようだ。ところが、千畝は親に逆らったのである。
1918年、早稲田大学高等師範部英語科に入学。翌19年には早稲田大学を中退し、外務省留学生試験に合格。外務省ロシア語留学生としてハルビンに渡ったのである。そこで英語、ロシア語、ドイツ語、フランス語などに長けるようになった。32年に満州国の外交部事務官に採用された。とくにソ連国内の機密情報にも精通していた。その能力が買われて、北満州鉄道買収の役を与えられたのだ。結果としてソ連側の要求額を約4億5,000万円値引きさせたのである。
36年、満州国から日本へ帰国して日本外務省へ配属される。モスクワ大使館勤務を命ぜられるが、ソ連側に入国を拒否される。「やり手外交官」としてソ連側に嫌われていたのであろう。あとはフィンランド公使館勤務、リトアニア日本領事館、プラハ日本領事館、ルーマニア日本公使館と転々としたのは、ソ連情報収集を託されていたということであろう。ソ連がどういう動きをするか、日本政府にとって死活問題であった。
リトアニアからプラハへ転勤する1940年9月という時期は、第二次世界大戦の重要な局面であった。日本は40年9月に日独伊三国同盟結ぶ。41年4月には、日ソ中立条約を締結した。
卓越した情報分析官・杉原は、41年5月に「ドイツがソ連へ侵攻する準備をしている」旨を伝えた。ところが外務省側は、「今ドイツはイギリスと戦闘中なのに、二面作戦が展開できるわけがない」と無視したそうである。だが、6月にドイツ・ソ連が激突することになった。4月の日ソ中立条約を結ばずに日本がソ連極東に進出を果たしていたならば、事態の展開は大きく変わっていた。1945年8月、敗戦を迎える。杉原は2年間シベリアへ抑留されたが、47年に帰国にした。そして6月に外務省を退職したのである。
1977年、テレビのインタビューのなかで、「帰国後、外務事務次官・岡崎勝男から『ご存知の件でいろいろと問題があった。問題があった。文句を言わないで暇を取ってくれ』と申し渡されたので『わかった』」と語っているそうである。ご存知の件とは、ビザ発給が訓令違反であるということかを指すのか!!その真相は今になって定かではない。
博愛主義を貫いた杉原の心中は、いかがなものであったのであろうか。(つづく)
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