2024年12月21日( 土 )

【再掲:福岡大学の変貌(3)】九州の日大?

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 聞いているだけで、福大がいかにのんびりした大学だったかがわかる話だ。自分があまりキチンとしているのが好きではないタイプなので、そんな大学に勤めたら居心地がいいだろうと思った。几帳面な人なら怒りもするだろうが、そんなことを怒る東京人でも、福岡に数年も住めば変わる。そういう例を私はたくさん見ている。

 「博多時間」というのがあるが、設定時刻より多少遅れてすべてが開始する。福岡勤務の東京人が東京時間を主張するのは最初の一年だけで、徐々に博多化していくと聞く。このことは何を意味するかといえば、「人は易きに流れる」ということだ。「易き」とは「安き」に通じ、心が休まるという意味でもある。仕事だけが人生ではない、と悟ることができるのだ。

博多時間 イメージ    私自身が東京の出身なので、九州に赴任先が決まったとき、九州経験のある友人に九州がどんなところか聞いてみたことがある。「いやあ、いいところよ。だいたいね、仕事が終わるとまず家に帰ってシャワーでも浴びてから外へ出る。夕食、焼酎。そういう生活ができるんだ。いま思えば夢みたいだよね。」

 なるほど、首都圏では仕事が終わって家にたどり着くのは午後9時過ぎ。それから出かけるなど問題外だ。そこで家に帰らず、オフィスから飲み屋へ直行する。すると、家に帰るのが深夜近くになる。

 つい最近、福岡大学について何か知っているか、東京で長く大学教授をしていた人に聞いてみた。すると、「福岡大学?九州大学じゃないよね。僕のイメージでは九州の日大ってところ。ちがうかな?」私には意外だった。日大の体質は例のアメフト事件で今や全国的に明らかであり、そうした体質は、私の知るかぎり福大とは無関係に思えたからだ。

 福大のキャンパスには知人もかなりいるので時々行ってみるのだが、何より感じるのはここが「福岡の大学」だということである。つまり、福岡のニーズに応えようとしている大学なのだ。すべてがゆったりしている。元気がある。多少粗雑な感じもするのだが、優しい表情の人が多い。どことなく祭りの気分が漂い、キャンパスのあちこちで学生たち何人かが一緒に作業をしている。こういう学生は就職すれば即戦力となるだろうと思えるのだ。いかにも博多的、否、福岡的。地元企業にはうってつけという感じがする。

 そういえば、もう10年以上も前だが、ベネッセに勤めていた後輩が福岡にやってきた。カメラ片手に学生たちを取材し、大学紹介の記事を書くのだそうだ。私は福大へ連れて行った。彼はそれまでに日本のあちこちの大学を訪問してきたが、福大生の活気には驚いたようだ。「ほんと、元気ですね」と喜んでいた。

 よく耳にする言葉に、福大はダサいが気の置けないところだというのがある。だが、ダサいといっても福大に「土」の臭いはしない。この大学の心臓は商学部であり、「商の心」が母体である。「商の心」といえば中国の習近平がドナルド・トランプをそう形容し、商売人は兵を起こさないと釘を刺したのを思い出すが、ということは、福大はトランプ派なのかもしれない。

 同じ「商」でも大阪と博多はちがう。大阪人は口が上手で、お客あっての商売と心得ている。博多モンは体力と気前の良さがものをいう。福岡が日本で一番大らかな町というのは当たっている。ある台湾人が大阪から福岡に移ってきてこう言ったという。大阪人はひらけているが意外に芯は硬い。一方の福岡人は大阪ほどひらけていないかに見えて、芯は柔らかく、温かい。当たっている気がする。

 福岡は体力の町だ。よく食べ、よく飲む。それに応じて、福大は体力の大学である。日大が体育学部で知られているので、その意味で福大を日大に例える人がいるのだが、先にも言ったように日大と福大はちがう。日大にはそれを背負う地元というものがない。福大には福岡、博多といった地盤がある。このちがいは大きい。

 それにしても、先にインタビューした先生が言ったようなのどかな福大はもはやどこにもなさそうだ。歴史の流れだから仕方がないと割り切るなら、何も書くことなどない。

 私流にいえば、かつての福大には「人間らしさ」があったということになる。東京からきた若い新任教員の歓迎会で、時の学部長が「お前、男か」とその新人を羽交締めにしてみせたという話を聞いたことがある。その新人、とんでもないところにきたと思ったようだが、今ならハラスメントで訴えることもできたろう。その学部長は哲学が専門だったというオチまでついている。福大の哲学は体力の哲学?

(つづく)

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