2024年09月15日( 日 )

【日本地方再生の道(4)】福知山城址から福知山市の活性化策を考察

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福知山城
福知山城

    福知山市は、1937年4月に京都府で2番目の市として誕生。以後、数度の合併を繰り返した。直近では、2006年1月1日に福知山市・三和町・夜久野町・大江町の1市3町が合併し、新たな福知山市としてスタートしている。

 同市は京都北西部に位置する。面積は552.54km2、人口は7万6,146人(22年4月末時点)で、中丹地区とも呼ばれる。京都市から60km、大阪市からは70kmの距離がある。国道9号をはじめとする多数の幹線国道や舞鶴若狭自動車道、JR山陰本線・福知山線、京都丹後鉄道宮福線などが通る北近畿の交通の要所として知られる。

 同市の歴史を紐解くと、縄文期から同地域に、有力豪族をはじめとする人々が居住していたことが判明している。数ある古墳や副葬品の出土によって確認された。平安期は摂関家の荘園として、鎌倉期は数々の守護・地頭の所領として治められた。

 室町期に入ると、小笠原家(塩見家に改称)が横山城を築き、当地を治めた。戦国期には織田信長が丹波を平定するため、明智光秀に横山城の攻めを命じた。光秀は横山城を攻め落とし、塩見家を滅亡させた。

 篠山と当地を平定した恩賞として、信長は光秀に丹波国を与えて治めさせた。光秀は信長の命を受け、福知山城を築き、現在の当地名が誕生した。本能寺の変後は、豊臣秀吉の支配下で杉原家次、小野木公郷が治めた。関ヶ原の戦い後は有馬豊氏が治め、福知山藩による統治が始まった。

 江戸期は有馬豊氏、小堀政一、岡部長盛、稲葉紀通、さらに天領を経て、松平忠房が治め、1668年6月には朽木稙昌が城に入った。以後、朽木家が13代にわたって明治期の廃藩置県まで統治した。関ヶ原の戦い後、徳川家康は丹波篠山と同様に福知山についても、西国大名を抑える軍事戦略上の重要拠点として位置づけた。

 明治期に入ると、丹波牛の育成・生産、桑の栽培など、農業と養蚕業が当地の主力産業となる。日露戦争時には、京阪神と軍港の舞鶴港をつなぐ交通網が整備され、福知山はその中継地点として国鉄福知山線と山陰本線の敷設が行われた。また、旧陸軍歩兵第20連隊を福知山駐屯地に配置するなど、軍事的な要所となった。昭和期に入って以降は前述の通りである。

 明智光秀が築いた福知山城は、1873年の廃城令により一度廃城となった。しかし、再建期成会などの有志が実施した1口3,000円の寄付を募る「瓦一枚運動」などで5億円以上の寄付金が集まり、加えて国庫と京都府の補助金によって城の再建に着手。1986年11月に竣工した。石垣は光秀が築いたものが現存する。城からは同市を一望できて、多くの訪問客で賑わう。同市の代表的な観光資源の1つとなっている。

 現在、同市では第3次産業である小売、卸売、観光業などが地域経済を支えている。産業人口は3万5,000人前後で推移。そのうち、第3次産業の人口が約60%を占める。次いで第2次産業が35%、第1次産業が5%となっている。

 観光事業の強化もさることながら、ものづくり拠点として市内には上場企業とその関連企業の製造工場が集まっている。今後は積極的な企業誘致により、ものづくり拠点の集積を進め、地域活性化を強化することが期待される。

【河原 清明】

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