2024年12月28日( 土 )

(株)百田工務店 3世代に渡る一族経営はさらなる繁栄か、衰退を招くか(前)

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(株)百田工務店

<COMPANY INFORMATION>
代 表:百田 善太郎
設 立:1956年1月
資本金:5,324万8,000円
売上高:(15/12)8億5,128万円
所在地:福岡市東区多の津1-4-5
URL:http://www.momota.co.jp/

創業86年目に突入した老舗

momota 1931年6月、大工だった百田茂盛氏によって個人創業されたのが同社の始まり。現・住友林業などから仕事を受注していたが、下請け体質からの脱却を掲げ起業を決意したと聞かれる。それまでの実績で得た営業基盤や、職人あがりの茂盛氏の家づくりのこだわりが認められ、52年には当時木造住宅大手の殖産住宅の指定業者となる。

 その後、56年1月に百田工務店は有限会社化、66年4月には株式会社化を果たす。株式会社化を果たした翌年には、ナショナル住宅(現・パナホーム)の指定業者となる。販売先は個人がメインではあるが、71年に福岡市から「香椎中学校普通教室新築工事」を初受注。案件は決して多くはないが、以降も官庁工事の実績を残している。言うならば粕屋郡の老舗の一つと評価できる。同社の遺伝子は住宅工務店といえるであろう。

 一族で固めた会社から独立して成功した例も多い。その典型が照栄建設を起こした前畑一人氏である(1972年設立)。1970年以降に設立した建設会社で一番、成長したのがこの照栄建設だ。能力のある人材が独立するのが業界の慣習であった。

次男・篤氏の営業力で新時代を築く

 トップの変更が初めておこったのは75年12月。創業以来同社の舵を取ってきた茂盛代表から、長男の茂俊氏が経営のバトンを引き継いだ。同年、同社は福岡市住宅供給公社からの業務初受注を果たしている。翌77年には日本住宅公団から業務を初受注し、78年には福岡県からは初となる「春日高校新築工事」業務を受注した。茂俊代表のもとで官庁の取引先は拡大。81年には防衛庁から業務を初受注している。

 また、高齢者や障害者への介護・ケアへの意識が高く、福岡市東区に「ピーチプラザ介護情報館」を設置し、無料介護セミナーの開催や市民ギャラリーの開催など、工務店の延長業務とは一線を画した活動も展開した。なお、同情報館の代表を務めていたのは、当時同社部長職に就いていた。ただこの積極果敢の拡大路線の布石を打ったのは次男・篤氏であった。2代目社長・茂俊氏は人柄温厚であまり目立つ存在ではなかったのだ。

 一方、弟にあたる篤氏は外交活動に手腕を発揮して粕屋地区の活動エリアを福岡まで拡大させた。福岡大学商学部を卒業して殖産住宅に入社。1970年5月に百田工務店の常務に就任した。兄の茂俊社長はどちらといえば技術者タイプ。対照的に篤氏は営業肌である。同氏の桁違いの活動量が同社の木造工務店のイメージからゼネコンへ変身させたのだ。この功労は関係者、誰もが認める。

 「仕事になる」とみると凄まじい営業展開を行う。一瞬にして相手の懐に飛び込むのである。例をあげると本社・博多区にあるタグチ工業のオーナーであった田口一幸氏(故人)の接近戦には感服する。田口氏は当時、福岡財界のドン的存在であった。自衛隊関係に強かったから「田口ドンの懐に入れば自衛隊関係の仕事が貰える」という判断で動いた。

 結果は短期間で得た。このドン・田口氏の縁でキワニスクラブに入会した。このクラブは篤氏のプライドを満足させる集まりだ。今でもこのクラブ会員であることは財産になっている。しかし、卓越した営業マンがしばしば批判される言葉がある。篤氏に「ドン・田口が亡くなれば足が遠のくな」という言葉が投げかけられる。「クールな打算の一面がある」という評になるのである。

 だが人間の評価は単純ではない。「儲けるために手段を選ばず」とか「打算高い」と言われても商売人がケチで打算高くなければ会社存続は危うい。篤氏は現在、出身高校・大濠高校OB会長役もこなしている。無私の精神で我が母校の為に貢献している昨今である。母校の為に最終人生を尽くすということは凡人には不可能だ。人間たるもの360度の顔を持ちきれないと人生平凡に終了する運命になってしまうのである。

(つづく)

<COMPANY INFORMATION>
代 表:百田 善太郎
設 立:1956年1月
資本金:5,324万8,000円
所在地:福岡市東区多の津1-4-5
URL:http://www.momota.co.jp/

 
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