2024年07月16日( 火 )

江沢民中国元国家主席死去 習近平体制の生みの親

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天安門 イメージ    中国の江沢民元国家主席が11月30日に死去した。96歳。1989年の天安門事件後に上海市トップから中央のトップ(中国共産党総書記)に引き立てられた、いわば同事件の最大の受益者であったが、奇しくも反政府デモが中国各地で発生している最中の死去であった。

 江沢民といえば、歴史認識をめぐり日本に対して厳しい態度を取ったこと、国家主席および総書記のポストを胡錦涛に譲った後も多くの側近を指導部に送り込んで院政を敷き、いわば抵抗勢力として介入したことから、日本ではあまりよい印象を持たれていないところもある。もっとも、経済面では日本の協力を重視していた。1995年には民間企業である伊藤忠商事の社長と単独で会見を行ったほどだ。

 また、本人とは直接関係がないが、90年代後半にODAによる日中経済協力のため地方を視察した大使館員(当時書記官)は、全行程に地方の副省長(副知事に相当)が同行したという。今では考えられないが、政府幹部の間でそれだけ日本の支援を頼りにする雰囲気があったのだろう。江沢民は旧日本軍統治下の南京で大学に通った経験を有し(その後上海の大学に移っている)、日本語を解するとされ、非公式の場では日本語の歌を披露することもあったという。

 江沢民は天安門事件で国内の政治社会が混乱した時期に突如トップに就くことになった。西側諸国との協調体制が崩れ、外資導入が減少し成長が低迷するなど困難な時期において、国内の安定を図り、鄧小平以来の改革・開放路線を維持し、高度成長を実現させた功績は小さくない。任期終盤には、中国初となる2008年北京オリンピックの誘致、WTO(世界貿易機関)への加盟も実現させ、国際社会での存在感を高めた。権力の継承については、引退後に院政を敷き汚点を残したが、最高指導者の任期は2期10年として総書記の地位に居座り続けることなく、継承のルール化にも貢献した。

 もちろん、功績だけではない。政治の安定と秩序の維持、そして開発を優先したことによる負の遺産も見られる。都市―農村間、沿岸―農村間などの地域格差および貧富が拡大し、乱開発による環境汚染などが進行する一方、自由の尊重や人権の保護などは遅れた。その後の胡錦濤政権で是正が図られるも、地方政府のサボタージュなどにより、あまり進展は見られなかった。

 07年、胡錦濤の後継者を最高指導部に入れる際、胡錦濤の意中の後継者であった李克強現首相に対して習近平を推したのは江沢民に連なるグループであった。当時は革命家の親を持つ有力な子弟の1人という程度の位置付けであったろうが、習近平は12年の総書記就任後、中国の諸課題を解決するには強力なリーダーシップが必要であるとして、権限を集中させていく。習近平への権限集中が共産党内で容認された背景には、江沢民時代の開発優先によって社会的課題が多く生み出されたこと、加えて政権基盤が弱かった胡錦濤時代にそうした課題の解決があまり進まなかったことがある。その意味で、江沢民は習近平を総書記にしただけでなく、現在の習近平体制の生みの親といえるかもしれない。

【茅野 雅弘】

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