百貨店解体新書(3)フィクサーから1億円の指輪を受け取ったそごう水島氏(前)
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セブン&アイ・ホールディングスの百貨店子会社、そごう・西武を米投資ファンドに売却する案件は、反対論が噴出し停滞している。
そごう・西武の前身である「そごう百貨店」と「西武百貨店」は、かつて百貨店売上高日本一に輝いた栄光の時季がある。改めて、両社の事件簿をひもといてみよう。フィクサー児玉誉士夫の使者、水島廣雄
38年間にわたってそごうに君臨してきた元会長の水島廣雄は、あらゆる意味で規格外の経営者だった。経営者とフィクサーの2つの顔をもっていた。そして「名もなき百貨店だったそごうを、短期間のうちに日本一の百貨店にした」という自負心は強烈だ(以下、敬称略)。
波瀾万丈の人生だった。田中角栄元首相の“刎頚の友”、国際興業社主の小佐野賢治や最大のフィクサーである児玉誉士夫といった、戦後のウラ社会を牛耳った怪物たちと親しく交わってきた。
児玉の使者として、ジャパンラインの乗っ取りを仕掛けた三光汽船の河本敏夫との和解を取り付けたことが、水島には最高の勲章となった。1973年のことだ。
水島は、「古巣の日本興業銀行(現・みずほフィナンシャルグループ)を救った」エピソードとして、三光汽船によるジャパンライン買い占め事件のことを何度も何度も側近に語った。「善悪は存知せざるなり」(『新潮45』2001年9月号)と題した特別手記で誇らしげにこう書く。
「興銀には銀行に貢献してくれた社外のOBに金杯を贈る制度があり、その受賞者は今まで三人。(中略)一人が私です。かつてジャパンラインの株が河本敏夫元副総理の三光汽船に買い占められた事件があり、福田赳夫元首相と野村証券の瀬川美能留元社長に頼まれて私が仲裁裁定してあげたことがある。興銀がジャパンラインのメインバンクだった関係で私に金杯を贈ってきました。」
水島は、毎年正月に、その金杯で酒を飲んだという。
興銀時代の水島は不遇だった。東大閥が主流の興銀では、中央大卒の水島は出世できなかった。同期が常務になるなか、部長にすらなっていなかった。そごうの社長になったのも、興銀をいつかを見返してやろうという意地からだった。その興銀から贈呈された金杯で酒を飲むのは、さぞや気持ちよかったことだろう。
三光汽船によるジャパンライン買い占め事件
三光汽船に株を買い占められたジャパンライン社長の土屋研一が「河本原爆(三光汽船社長の河本敏夫のこと)に対するには児玉水爆しかない」と判断し、児玉誉士夫に頼んだ。
ウラ世界のもめごとの解決を頼めるよろず相談受付所が児玉だった。経営者は児玉の名前をきいただけで震え上がったが、その一方で、もめごとの解決には児玉の力を借りた。世界最大のタンカー・オペレーターである一流企業ジャパンラインのトップは、児玉誉士夫に事件解決の交渉を一任したのである。
だが、児玉の豪腕をもってしても、河本との交渉がまとまらなかった。児玉が最後に使ったのが、そごう百貨店社長の水島廣雄である。
江波戸哲夫著『神様の墜落:“そごうと興銀”の失われた10年』(新潮社)によると、水島は有楽町そごうの上にある正力松太郎(読売新聞社主)の部屋で調停を行った。水島は江波戸のインタビューでこう語っている。
「“どっちもいいな?”と念を押して、“1株380円”という数字を出したら、両方ともモノを言えなくなっちゃった。“君ら、おれの一発勝負に従うと誓っただろう”というと、児玉が“武士に二言はない。飲みます”と応じて、河本も仕方がないから飲むという」
竹森久朝著『見えざる政府──児玉誉士夫とその黒の人脈』(白石書店)は、児玉と水島のつながりをこう書いている。
「児玉は三光汽船の岡庭博専務と興業銀行で同窓の水島廣雄・百貨店『そごう』社長を使者に立てた。ここらあたりの人選は心憎い配慮が払われている。面会を拒否できない人物を登用して、半ば強引に話し合いの円卓に就かせるようにした」
(つづく)
【森村 和男】
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