知っておきたい哲学の常識(31)─現代篇(1)
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福岡大学名誉教授 大嶋 仁 氏
時間と時刻は違う
「現代人は時間に追われている。」「僕には時間がない。」「私、自分の時間が欲しいの。」──こういうときの「時間」は、時刻と時刻の隙間を意味する。すなわち、何時から何時までという意味での時間である。
ところが、そういう時間とはちがう時間がある。たとえば、眠っていて夢を見る。そのなかで過ごす時間は、これを目覚めているときに換算すればわずか数秒であっても、夢を見ている者にとっては数時間であったり数日間だったりする。この夢のなかの時間は、一体なんなのか。
映画館に久しぶりに行ってみる。面白い映画を観る。あっという間に2時間が経つ。ところが、映画のなかでは長い歳月が流れており、観ている自分もその時を共にする。
大好きな人を待つ時間は長く、会えばあっという間に3時間がすぎ、別れを言う時刻となる。これは一体なんなのか。
時は流れるというが、時刻は流れない。時刻とは時に刻み込まれた数字のことだから。流れるときは数値で表せない。時刻は表せる。この2つを混同するなと叫び続けたのが、20世紀前半を代表する哲学者の一人、ベルクソンである。
ベルクソンと同じ時代のフロイトは、無意識の世界を発見した人である。私たちの意識の底にうごめく無意識だ。
彼は無意識の世界では時が一律に進行していないことに気づいた。時が一律に進行するのは時計の上でのことであって、日常生活はそれに依拠しているものの、私たちの精神活動は無意識の上に成り立っているのであって、そこでは別の時が流れていると気づいたのだ。
一律の時間という考え方は近代哲学の代表格カントのもので、カントは私たちには生まれつき時間と空間の認識能力があり、その時間と空間は一律で、これは万人に与えられていると見た。これに対しフロイトは、精神においては空間も時間も一律ではなく、無意識の世界は無時間だと主張したのである。ベルクソンとは別の角度から、一律の時間なるものは数値化するのに都合よく構築されたものであって、それ以上ではないと断言したのだ。
この2人は互いに知ることはなかったが、両者とも哲学と科学における時間論を打ち砕こうとした点で共通する。
さて、ベルクソンの時間論は記憶の問題と関係する。私たちの記憶には、生活のための記憶と精神の奥深く染み込んだ記憶がある。生活のための記憶とは、寝る前に車のキーを携帯電話と一緒に茶卓の上に置いたことを翌朝覚えているといった記憶で、歳をとるとこういう記憶が弱くなる。
一方の、精神の奥深く染み込んだ記憶は、幼少期の楽しい一日のことが突如よみがえるといった記憶で、このような記憶のよみがえりは、いっぺんに時間が吹っ飛んだような感じを与えるものだ。過去が現在となって現れ、人はその過去を現在として生きる。ベルクソンはこの後者の記憶を大切にした。そこに、時間というものの本質があると見たのである。
私の住む町の駅前広場では、毎週末に若者がやってきて勝手に歌を歌う。だいたいが聞くにたえないほど下手くそで、よくも人前で歌えるものだと思わせるのだが、先週は「こいつはなかなかやる」と思わせる歌い手が現れた。それで思わず立ち止まって、二曲ほど聴いた。高校生ふうの男子であった。
聴いていると、これまた高校生ふうの女性が小さな紙切れを、数人しかいない聴衆に配っている。私にも一枚くれた。見ると歌詞が書いてある。そうか、自作自演なんだ。
「今朝も爽やか 陽がのぼる 呼吸をすれば 山光る 同じ朝日を 何度見た?」
珍しく五七調だ。そう思って目を先に走らせると、驚くようなことがつづられている。
「時は不思議だ おお昔 父と一緒に 初日の出 その思い出が よみがえる」
「よみがえったのは 餅の味 姉とたらふく 食べた味」これを読んだとき、ベルクソンはここにも生きていると思った。
ベルクソンが生きているといえば、世界中で圧倒的に高く評価されている押井守のアニメ『攻殻機動隊』もそうである。英題はゴースト・イン・ザ・シェル(Ghost in the Shell)。「ゴースト」は幽霊でなく霊魂の意味で、「シェル」は殻のことだ。殻は「擬体」と呼ばれる取り替え可能な人工の身体。そのなかに霊魂だけ代替不可能なまま潜んでいる。その霊魂の内実は、なんと記憶。
記憶だけはハッキングされない。そこが味噌である。脳科学者は、脳の損傷があった場合でも記憶装置は簡単に壊れないと言っている。しかも、その装置は単なる記憶の貯蔵庫ではなく、記憶を再生させるべく物語機能をもつという。記憶の再生とは、物語ることなのだ。
フロイトの精神分析も過去を物語らせる。そうすることで葬り去られていた記憶がよみがえり、今が過去とつながる。これをすることは、精神の浄化をもたらすという。
とはいえ、過去の記憶をよみがえらせるのは簡単ではない。無理矢理しようとしても、記憶は逃げる。「ふと思い出す」という「ふと」が大事なのである。時刻から自由になる瞬間。これは万人が欲するものである。
(つづく)
<プロフィール>
大嶋 仁(おおしま・ひとし)
1948年生まれ、神奈川県鎌倉市出身。日本の比較文学者、福岡大学名誉教授。75年東京大学文学部倫理学科卒。80年同大学院比較文学比較文化博士課程単位取得満期退学。静岡大学講師、バルセロナ、リマ、ブエノスアイレス、パリの教壇に立った後、95年福岡大学人文学部教授に就任、2016年に退職し名誉教授に。関連キーワード
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