知っておきたい哲学の常識(39)─現代篇(9)
-
福岡大学名誉教授 大嶋 仁 氏
ピースミール
20世紀の哲学者ポパーは現代世界にとって極めて有用な考え方を提供した。一時は政治家の間でも人気があったと聞くが、ほんとうかどうかわからない。
ポパーは社会工学の理論家として重要である。彼の思想は民主主義国家のあるべき姿を照らし出しているし、科学について独創的な見解を示してもいる。彼について知ることは、現代人として必須のことのように思われる。
社会を1つの機械と見た場合、そこに生じた不具合をどう解消すべきか、これを探求する学問を社会工学という。これについてのポパーの見解は、「ピースミール」という語に尽きる。
ピースミールとは「徐々に、少しずつ」という意味である。社会を改善しようとするなら、全体をではなく、問題の箇所にのみ手を加え、部分的に修正していく方がいいという考え方だ。
この考え方は実用に適しており、どの社会でも実践すべきだと思えるほどだ。しかし、「問題には抜本的な改革が必要な場合がある。それをしないで、ちょこちょこと細部を修正しても始まらない」という意見もある。
役人ならこの点で頭を抱えることはなく、抜本的解決など考えない。だが、政治家となると、「ピースミール」を口にしていたら当選できないなどと思いがちなのである。
ポパーが言いたかったのは、「政治はイデオロギーに支配されるな」ということである。オーストリア生まれのユダヤ人であった彼は、ナチスの台頭を目の当たりにし、その経験からそう言ったのだ。
ナチスのイデオロギーとは全体主義、民族主義、反ユダヤ主義、反共産主義。ヒトラーはこれらを次々と実現した。その恐ろしさを知っているポパーであればこそ、ピースミール(=小出し)を提唱したのである。
ヒトラーはユダヤ人を大量虐殺したから悪人なのか。否、間違った政治の仕方をしたから悪人なのだ。ポパーにとってヒトラーは1人の人間ではなく、誤ったシステムそのものだった。
ポパーはヒトラーだけを目の敵にしたわけではない。「共和国」という名のつく独裁国家を提案した古代ギリシャのプラトンも、「平等社会を実現すべく闘おう」と呼びかけたマルクスも、ともに彼にとっては敵だった。なんとなれば、プラトンもマルクスも理想的な政治の実現を目指した。そういう理想主義者についていけば、必ずや計画は失敗し、多くの市民は多大な損害を被るというのである。政治はそうあってはいけない。これがポパーの信条である。
ポパーにとって、社会も、国家も、「開かれた」ものでなくてはならなかった。「開かれた」とは、意見があれば反対意見が必ず生まれる場を確保するという意味である。そのような場こそ自由を保障するものであり、意見を言わせない、反対勢力を抑圧するといった姿勢は、彼にすれば最も危険なものであった。
たとえば、7年前、アメリカではドナルド・トランプが大統領に選ばれた。選挙は僅差の勝負であり、反トランプ派がかなり多かったことから、「アメリカは分断される」といった危惧が生まれた。
ポパー式に考えれば、「分断のなにが悪い」ということになる。もともと意見の対立はあって然るべきで、対立がない方がおかしいではないか。対立がないとは抑圧が極大になっている証拠であって、そんな国が民主国家などとはいえない。「アメリカ人、なに考えているの?」ということになる。
「隠れトランプ」が多数いる国に本当の民主主義はあるのか。「トランプを支持します」となぜ人前で言えないのか。ここにアメリカの最大の問題点がある。
すでに出来上がった価値観とシステムがあり、それが一種の神器となっているアメリカ。民主主義どころか、全体主義の国なのかもしれない。
しかし、それはアメリカだけの問題ではない。日本のようにアメリカに追従する国も、民主主義の衣を着た全体主義国家になる恐れがあるのだ。
ポパーについていえば、歴史というものにも彼は批判的であった。歴史は物語としての価値はあるが、これを真実であると思うのは大変危険なことだと強調したのである。ナチス党員やマルクス主義者は、歴史はこうなっている、だから将来はこうなる、そう決め込んでいた。この極めて非科学的な考え方が、多くの人を死に至らしめたと彼は見たのだ。
天体の運行は法則どおりに進むかもしれないし、そう考える根拠もある。しかし、歴史となると予測ができず、そこに法則など見つからない。物理学なら実験で法則が正しいと証明できるが、歴史は人間が動かすものだから、実験などできない。そういうわけで、ポパーは歴史主義を危険視したのである。
私が学生のころは大学紛争の真只中。なかには威勢のいいのがいて、「我々の闘争は歴史の大実験なのだ」と豪語していた。とんでもない錯覚である。そのために、頭蓋骨が陥没して一生を台無しにした者もいる。
私はポパーの哲学を社会人、大学生といわず、高校生にも薦める。その理由は、以上から明らかだろう。
(つづく)
<プロフィール>
大嶋 仁(おおしま・ひとし)
1948年生まれ、神奈川県鎌倉市出身。日本の比較文学者、福岡大学名誉教授。75年東京大学文学部倫理学科卒。80年同大学院比較文学比較文化博士課程単位取得満期退学。静岡大学講師、バルセロナ、リマ、ブエノスアイレス、パリの教壇に立った後、95年福岡大学人文学部教授に就任、2016年に退職し名誉教授に。関連キーワード
関連記事
2024年11月20日 12:302024年11月11日 13:002024年11月1日 10:172024年11月22日 15:302024年11月21日 13:002024年11月14日 10:252024年11月18日 18:02
最近の人気記事
おすすめ記事
まちかど風景
- 優良企業を集めた求人サイト
-
Premium Search 求人を探す