支配・侵略の6000年の歴史の変遷~イタリア・シシリー島(3)
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ルーツは何?
日本人のルーツもさまざまな民が流れ込んできて多様な血が混じって形成されてきた。しかし、少なくとも8世紀以降は単一民族国家として統治されてきた。ところがシシリー島には近世までさまざまな勢力が侵略してきたので混血の率が高い。シリーズ(1)で指摘したように地中海に中心部に浮かぶこの島には、わかる範囲でも6000年前から航海の交流がなされていた。
だからシシリーのルーツは何?と尋ねられたら『壮大な混血』と回答するしかない。今、現存する遺跡類から結論を下せるのは「5000年前の陶器が物語る。この時点がシシリーの原点ではないか」ということだ(後のシリーズで触れる)。
まずはギリシャの植民地からスタート
シシリー島にはBC8世紀頃からギリシャ人が植民してきた。距離の近さと文明の勃興時期と相まってギリシャに支配されるのは時代の趨勢であった。シラクサやメッシーナ、アグリジェント、カターニアなどの植民都市が建設された。中心はシラクサである。現在、この土地には15世紀のゴチック風の建物が残っている(支配層が変わるたびに街並みの変化があったであろう)。まずは手始めにギリシャ東部地区に都市国家が樹立していったのだ。
BC431年のペロポネソス戦争の時に、アテネは敵対するスパルタやコリントスを牽制するためシシリーに遠征するが、敗れてギリシャの覇権を失った。
その後、シシリーにはカルタゴが侵入してきた(カルタゴは北部アフリカ、地中海に面した現在のチュニジア)。ギリシャとカルタゴの覇権争いが始まり、BC310年、カルタゴは、シラクサとメッシーナ以外を支配し、絶頂を迎えた。
ここからはローマ都市国家の勢いが高まる。BC265年にカルタゴとシラクサが同盟してメッシーナを攻めたことからポエニ戦争が始まり、ローマの出番となった。ローマはカルタゴを破ってシシリーを手中に収めた。シシリーがローマの配下状態にあったのは7世紀におよぶ。その後の植民地の統治変遷があるが、ローマ植民地時代が一番長い。この期間にシシリーの根幹が形成されたといえる。しかし、その後もダイナミックな血の交わりは続く。
イスラムの軍門に下る
ローマ都市国家はキリスト教普及を認知したころから衰退を始める。傭兵たちの反乱が相次ぎ5世紀になるとローマは分裂状態となる。権力空白の間隙を縫ってシシリーはヴァンダル族や東ゴート族の侵入を許した。結果、ゲルマン民族の支配を許したのである。ローマ国家は分裂したが、東ローマ帝国が台頭してきた。535年にこの帝国のユスチニアヌス帝が東ゴート族を追い出した。その後の270年間、東ローマ帝国の下で安泰期を迎えた。
9世紀になると北アフリカからイスラム勢力が侵攻し、パレルモを中心にイスラムの支配が始まった。その後、200年にわたって支配した。今回の視察ではパレルモには行っていない。イスラム支配の時代遺産が数多く残っているといわれる。近々、必ず訪問するつもりだ。イスラム支配というと武力制圧というイメージが強い。だが現実の統治策は商売優先である。だから、この時代が一番、商業が栄えたと伝えられている。
中世・近世はめまぐるしい侵略の攻防
ゲルマン民族の大移動で、現在のヨーロッパ地域の勢力配置が地殻変動している。そのゲルマン民族の一派であるノルマン人が12世紀にイスラムからの支配を解放し、シシリーを含む南イタリアにノルマン朝シシリー王国を建てた。ノルマン人ロベルト・ギスカルドがシチリアを征服、甥のルッジェーロ2世が初代皇帝となった。シシリー王国はフリードリヒ2世の時に絶頂期を迎えた。彼の死後、フランスやスペインがシチリアの支配者となっていく。ノルマン人支配は100年間持続できなかった。
1194年、ノルマン朝の後継者が断絶し、現在のドイツ地域を基盤にしている神聖ローマ帝国の流れを汲むハインリッヒ6世がシチリア王国の皇帝となる。
1268年、フランスのルイ9世の弟シャルル・ダンジューが征服した。言わばフランスの地方の一王がシシリーを征服したことになる。この一族の圧政に対してシシリー人たちは反抗する。この争いに乗じて1282年、スペインのアラゴン王がシシリー島を支配する。
ここからこの島はスペインの影響を色濃く受けることになる。シシリー島とスペインは離れている。「どうしてシシリー料理とスペイン料理が似ているのか?」という疑問が湧くことがある。その答えは「中世時代からスペインの支配を受けていたからだ」ということになるだろう。
途中、1734年にはオーストリアのハプスブルク家に抑え込まれた時期もあった。また1800年初頭にはナポレオンの侵略を受けたこともある。だが終始、スペインの影響は絶えなかった。たしかに地政学上ではシシリー島はイタリア半島に接続状態である。しかし、中世・近世における政治・文化・生活スタイルはスペインからの影響のほうが強い。この歴史的影響力を背景に独自のシシリー文化が蓄積されたのである。
近代国家づくりは1861年
イタリアの近代国家樹立は遅い。シシリー島を含めたのは1861年である。ブルボン家支配に異議申し立ての国民運動=立憲政府擁立運動が激しくなり、1820年、1848年の運動を通じて立憲政府が誕生した。近代国家のスタートである。統一国家づくりに奔走したカリバルディは1860から1861年にかけてシシリー島に呼びかけた。「イタリア半島が統一されたからシシリーも加わらないか!!」というものだ。読者もこの意味を十分に理解していただきたい。
「なぜ、シシリー島にマフィアが生まれたのか?」という設問がある。「これだけ支配者がコロコロ転がり頼りにならないから、地元民たちは腕力ある勢力の出現を願っていた。それでマフィアが生まれた」という説がある。日本と比較すると別次元の権力構造になっている。住民意識の中には「国家、行政に頼れない」という根強い不信感がある。あとのシリーズで触れるが、「俺はイタリア人ではない。シシリー人だ。カリバルディが俺たちをイタリア人に仕立て上げた」と吠え捲るシシリー人がいた。
1504年、アラゴン王フェルナンド2世がナポリ王国(フランス)を征服してナポリとシチリアを再統一
1734年、オーストリアのハプスブルグ家が支配
1860年、ガリバルディのイタリア統一
(つづく)
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