総理待望論浮上の泉前明石市長、野党の旗印になるのか!?(4)
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6月30日付のNet IB記事「総理待望論が出始めた泉前明石市長に立民代表がラブコール」で、これまで夢物語のように語られていた「泉房穂・総理大臣待望論」が、野党第一党の泉健太代表からの出馬要請で現実味を帯びてきたことを記事にした。
その中で筆者は、「秋口にも予想されている次期総選挙で、泉前市長が『明石方式の国政反映(国民負担増なき子ども予算倍増)』を旗印に出馬、野党統一候補になれば、政権交代の実現可能性は一気に高まる」と述べたが、筆者がそのように考える理由となる講演を泉氏はそれに先立って行っていた。
本記事では、6月7日の長妻昭・政調会長主催の時局講演会に招かれた際に泉氏が語った政治への想いを詳細にお伝えする。子ども心の誓いを改めて胸に
少し私事も付け加えさせてもらいますが、私が子ども心に悔しく思ったのは、私の父親は小学校を出てすぐに漁師にならざるを得ないような家庭だったということです。父親は勉強がしたくても勉強ができずに小学校を出てすぐに漁師になりました。それは戦争で兄3人が亡くなったためです。父親には兄弟が何人かいましたが、兄が戦死したため、小学生だった父親は漁に出ざるを得ず、中学校に行けなかったのです。おふくろも同じような状況で中学校を出て働き始めた。その夫婦で結婚してできたのが私でありました。
そのときの夫婦の誓いはこうだったそうです。『自分たちは頑張ってもなかなか自分の夢はかなわなかったけれども、自分の子が勉強したかったら、自分たちが頑張ってせめて高校くらいは行かせてやろう』と。それが私の両親の結婚の誓いだったそうです。ただ実際は漁師の生活が厳しかった。そういったなかで4つ下の弟が生まれます。その当時の兵庫県はひどくて、障害を持つ子が産まれたら、産まれた直後に放置をして、そのままにするというのが県の方針になっていました。今からすると信じがたいことでありますが、いわゆる優生保護法的な発想であります。弟は生まれ落ちたときに障害をもって生まれたため、病院から『そのままにしましょう』と言われ、いったん両親はやむなくサインをします。しかし、お別れのときにやはりうちの両親は泣きじゃくって、『障害が残ってもいいから連れて帰りたい。命だけは助けて欲しい』と言って病院に懇願をしました。病院を説得はできませんでしたが、両親は私が待つ家に弟を連れて帰った時代でした。当時は本当に酷くて、頑張って働いても報われない、障がいのあるものが冷たく理不尽な目にあう、そんな社会でした。
そういったなかで冒頭でもお伝えしましたが、10歳のとき私は『この冷たい社会を自分で変えて見せる』と心に誓ったのです。自分の一生を、全人生をかけてでも、この冷たい社会を、困ったときに助け合えるような支え合いができるような社会に変えたいと思ったのが10歳の時です。そこから自分なりには一生懸命努力を重ね、自分なりに頑張り、そしてようやく市長になってほかの街がしなくても、たとえ国がしなくても明石市で成功事例を示したい。その一心でした。
成功事例とは簡単にいうと、お金はないわけではない、何とかすれば金はつくれる、そして政治が変われば街が変わる、市民が幸せになる、それができるのが政治なのだということです。そのことを私は明石市で証明したかったのです。
改めて明石市長をして感じたのは、国を変えないといけないということです。国はもっとたくさんのお金をもっています。いろいろな工夫もできます。明石市民を幸せにするためには、明石市長を続けただけでは明石市民をもっと幸せにすることはできない。まさに国も都道府県も市町村もつながっているのです。その根幹は国の政治にあるのです」。
以上、時局講演会の第1部(前半)で泉・前市長が、明石市での成功事例と “国政変革”への思いを総論的に語った内容を詳細にお伝えした。
続く第2部(後半)では長妻政調会長とのトークとなり、最後に参加者との質疑応答となったが、このときの話を基にして私は、6月30日付記事「総理待望論が出始めた泉前明石市長に立民代表がラブコール」において「明石方式の国政反映(国民負担増なき子ども予算倍増)」が泉・市長出馬時の旗印(野党陣営の共通政策)になると予測した。なお、この時局講演会は動画配信の「フランス10」で見ることができる。
(了)
【ジャーナリスト/横田 一】
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