袴田事件検察の不都合な真実
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NetIB-Newsでは、政治経済学者の植草一秀氏のメルマガ記事を抜粋して紹介する。今回は、元ボクサーの袴田巌さんの死刑判決が確定していた事件が、発生から57年もの月日を経て再審開始が認められたことを取り上げつつ、国家権力は冤罪を創出できるという事実に国民は向き合い、検察の暴走を許さぬよう呼びかける7月11日付の記事を紹介する。
刑事訴訟法第336条は次のように定める。
(無罪の判決)
第336条
被告事件が罪とならないとき、又は被告事件について犯罪の証明がないときは、判決で無罪の言渡をしなければならない。「被告事件が罪とならないとき」、「被告事件について犯罪の証明がないとき」は判決で無罪の言渡をしなければならない。「犯罪の証明がないとき」には「無罪の言渡をしなければならない」とされるが、問題になるのは、何をもって「犯罪の証明」とするのかだ。
「犯罪の証明」とは「厳格な証拠によって、合理的な疑いを超える確信を裁判官に抱かせる程度まで証明すること」を指す。「厳格な証拠」が犯罪の証明には必要不可欠だ。ところが、現実には「厳格な証拠」の存在が客観的には確認されていない場合でも有罪の判決が示されることが多い。
この判断の拠り所とされるのが「自由心証主義」と呼ばれる考え方。刑事訴訟法第318条は次のように定める。
(自由心証主義)
318条
証拠の証明力は、裁判官の自由な判断に委ねる。証拠の価値(証拠価値)は裁判官の自由な判断にゆだねることとされている。福岡県弁護士会HPの「弁護士会の読書」と題する書評欄に霧山昴氏による、『犯罪の証明なき有罪判決』(吉弘光男・宗岡嗣郎著、九州大学出版舎)の書評が掲載されており、そのなかから一部を転載させていただく。
https://x.gd/igNQz
「『裁判官は証拠で認定するのが本来ですが、なかには証拠が薄くても本当に被告人が犯人だと確信してしまえば、多少判決の説明が苦しくても有罪判決する裁判官がいる』(木谷明元判事)。しかし、たとえ裁判官がどれほど強く有罪への確信をもって心証を形成しても、証拠の薄さに由来する『疑わしさ』が残るかぎり、『犯罪の証明があった』とは言えず、有罪判決は書けないはず。有罪の『心証』ではなく、有罪の『証明』が必要なのである。
ところが、裁判官は有罪の証明ができないときに『事実を創作』してしまう。もちろん、こんなことはあってはならないことですが、ときどき起きているのが現実です。」「犯罪の証明」が自由心証主義に委ねられると、一言で言えば「何でもあり」になってしまう。「証拠の価値」が裁判官の自由な心証に委ねられれば「白が黒になり」、「タテがヨコになる」。裁判が根本的な危うさ=でたらめさを内包していることを知っておく必要がある。
※続きは7月11日のメルマガ版「植草一秀の『知られざる真実』」「袴田事件検察の不都合な真実」で。
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