2024年12月22日( 日 )

葬式の後に待っていること(前)

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大さんのシニアリポート第126回

 親友のH.Mが亡くなったことは前回報告した。地方の名士とはいかないまでも、教え子や学校関係者、所属していた町内史研究会や趣味の会のメンバーが参列して、葬儀もつつがなく終えた。私も式に列席して弔辞を述べた。エド山口と遭遇した“大音痴事件”や、H.Mが作詞し、私がそれに曲を付けた『三十二歳(さんじゅうにとせ)はまだ花よ』を霊前で歌い上げた。少々不謹慎の気がしないでもなかったが、私の本心からの贈る言葉だった。

“遺書”になかった学友への答辞

イメージ    H.Mが送ってくれた長文の“遺言”には、教員生活でお世話になった人や、東大で教授として活躍している教え子への賞賛の言葉、多大な影響を受けた大学教授の名前はあるものの、私をはじめ数多くの学友の名前はなかった。死を予感した人は、彼を取り巻く家族や職場、地域の人たちへの思いが優先するのだろうか。

 学友へは、第二の“遺書”を書くつもりにしていたとも推測できる。でも、恐らくそのときのH.Mの頭のなかは、臥するH.Mの周辺に居る人への感謝の気持ちで溢れかえっていたのだろう。そこには学友の影はない。これまでの長いH.Mとの濃密な関係を振り返って、抑えきれない寂寥感を拭い去ることはできなかった。

人の住まない家の将来は…

 葬儀を終え、次なる問題が山積している。これはH.M家だけの問題ではなく、地方都市に住む人たちの誰にでも起こり得る問題だ。まず、H.Mの妻には完治が見込めない持病があり、1人で生活することは不可能である。以前から、静岡に住む長男夫婦との同居という話があり、H.Mの死去でこれが現実味を帯びるだろう。

 次に、家の売却だが、これは難問だ。この地区は鉄道もバスの便もなく、スーパーも病院も遠い。車がなくては生活できない。いわゆる限界集落といえるだろう。周辺には空き家が増えて活気もない。例外なく高校を卒業した子どもたちは東京をはじめ、周辺都市に生活圏を求め、生まれ故郷に還ることはほぼない。

 必然的に人口は減少し、住宅放棄につながる。全国にある空き家の総戸数は、九州にある住居の総戸数を超えているともいわれている。H.Mが終の棲家として求めた地域は、数十年前、部落内に造成された新興住宅地である。旧住民とは生活水準が違い、必ずしも円滑な交流があったとはいいがたい。住む人が居なくなれば、結局は空き家として放棄される。

 こういうことが全国各地で起きていると思われる。「空き家対策」を掲げて奔走する自治体や、「空き家サポート隊」なる不動産業者もいるが、特長のまるでない、住むためだけの住宅街、再生不可能と思われるH.Mの地区のようなベッドタウンは、限界集落化することは避けられないだろう。総領である長男夫婦にとっても、生活基盤が長年静岡市にある以上、この地に戻ることはない。

限界集落に墓をつくりますか

お墓 イメージ    次に、墓である。旧住民には昔、共同墓地があったはずだ。土葬の時代には遺体は村の共同墓地に埋葬された。そこには墓石を建てる習慣がなかった。共同墓地ゆえ、家族という基本的な個の家の成りたち以上に、相互扶助が重要視された。

 この共同墓地に新住民が入れる保証はない。新住民の多くは次三男が多く、長男(総領)が仕切る先祖代々の墓に入ることはできない。従って、墓は別に求めることになる。寺があれば寺と新檀家として結び、そこに墓を造成することができる。H.Mの場合、長男の住む静岡市内に墓を求めると聞いた。

 地域の寺の墓地に埋葬しても、やがて家も墓も放置するという異常事態が生じることになる。入居したころは、新生活をスタートさせる喜びに溢れていたに違いない。それが、数十年後に限界集落になるとは、誰が想像したことだろう。

(つづく)


<プロフィール>
大山眞人(おおやま まひと)

 1944年山形市生まれ。早大卒。出版社勤務の後、ノンフィクション作家。主な著作に、『S病院老人病棟の仲間たち』『取締役宝くじ部長』(文藝春秋)『老いてこそ2人で生きたい』『夢のある「終の棲家」を作りたい』(大和書房)『退学者ゼロ高校 須郷昌徳の「これが教育たい!」』(河出書房新社)『克って勝つー田村亮子を育てた男』(自由現代社)『取締役総務部長 奈良坂龍平』(讀賣新聞社)『悪徳商法』(文春新書)『団地が死んでいく』(平凡社新書)『騙されたがる人たち』(講談社)『親を棄てる子どもたち 新しい「姥捨山」のかたちを求めて』『「陸軍分列行進曲」とふたつの「君が代」』『瞽女の世界を旅する』(平凡社新書)など。

(第125回・後)
(第126回・後)

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