2024年10月05日( 土 )

イスラエル、シオニズム、ホロコースト

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福岡大学名誉教授 大嶋 仁 氏

イスラエル イメージ    パレスチナの過激派組織ハマスによるイスラエル攻撃、イスラエルのこれに対する報復。終わりの見えない、救いのない人類の縮図である。

 20年以上前、あるユダヤ人女性に向かって、イスラエルを非難する言葉を発したことがある。その人はアルジェリア出身で、イスラエル人ではなかったのだが、「あなたには何もわかっていない」と一蹴された。そのときふとアラン・レネの映画『ヒロシマ・モナムール』(邦題『24時間の情事』)の一場面が眼前に浮かび、私は口をつぐんだ。

 その映画は原爆投下後の広島にやってきたフランス人女優と、そこでたまたま知り合った日本人男性の束の間の交情の物語である。しかしその主眼は、戦争の災禍は決して語ることのできないもので、他者には伝わらないということを表していた。この作品の前に、同じ監督はアウシュヴィッツ強制収容所を描いた『夜と霧』を発表している。

 眼前に浮かんだ一場面とは、広島でさまざまなものを見たフランス人女性に、日本人男性が「君は何も見ていない」という場面であった。2人は駅のベンチに座っているのだが、その2人の間に外国語などまったくわからない日本人老婆がちょこんと座っている。そして2人の顔をのぞき込んで、「この人、外国の人かね」と日本人男性に聞くのである。男性はたしか黙っていた。岡田英次扮するその男性の表情がいつまでも忘れられない。

 だが、イスラエルについては何かを語らなくてはなるまい。原爆やアウシュヴィッツと同様に。そこで思い出されるのが、私が初めて出会ったイスラエル人ツィオンである。彼の名は英語式にはザイオン。「神殿の丘」を指し、イスラエル全体を表す語にもなっているという。イスラエル建国運動はシオニズムと呼ばれるが、その語源はシオン、すなわちツィオンなのだ。

 そのツィオンが何度も私に言っていたのは、「イスラエルは昔からイスラエルで、1948年に建国される前はパレスチナ人もユダヤ人も問題なく同居できていた」ということである。それが国連の決議で建国が決まった途端、「西欧化したユダヤ人たちが大挙して押し寄せ、パレスチナ人を差別し、排除するようになっていった。自分のように先祖代々この土地に住む者には、今のイスラエルは我慢がならない」と。

 これを聞くと、諸悪の根源が国連の決議にあったかのように聞こえる。しかも、同じユダヤ人でも昔からイスラエルに住んでいたツィオンのような人間は、西欧からやってきた「白いユダヤ人」から差別されるのである。西欧のユダヤ人たちは西欧世界では差別されていたのに、アラブの地に来ると今度は相手を差別する。人間とは救い難い差別主義者だと思わざるを得ない。

 アイザック・バシェヴィス・シンガーだったか覚えていないが、ニューヨークのユダヤ人作家の作品に、ホロコーストを生き延びてニューヨークで暮らすユダヤ人が、道を歩くとナチスに追われているような強迫症に陥り、ついにピストルを買って街頭で見知らぬ人を射殺してしまうという話がある。ホロコースト後遺症にちがいない。

 なぜこれを思い出したかというと、イスラエルはある意味、ホロコースト後遺症から生まれた国だと思うからだ。国連決議の背景にホロコースト犠牲者としてのユダヤ人への同情があったというだけではない。実際にホロコーストを生き延びた人たちが大勢移住し、それによってイスラエルなる近代国家が生まれたのである。

 公式にはこの国はユダヤ民族主義の理念、すなわちシオニズムによって生まれたといわれる。しかしその理念にしてからが、西欧近代のナショナリズムが生み出したもので、そのナショナリズムの極致がナチズムなのだ。従って、ホロコーストとシオニズムと国家としてのイスラエルとは不可分なのである。

 ユダヤ人はナチス=ドイツにはあからさまな報復はできなかった。ヒトラー体制は滅び、戦後のドイツは反ユダヤ主義を払拭し、イスラエルを支援する側に立ち続けているからだ。しかし、ホロコースト後遺症は残る。今のイスラエルを見ていると、あのニューヨーク作家の小説が思われてならない。

 日本に長く住むユダヤ人Mがある時こんなことを言った。「シオニズムはナチズムの変形です。イスラエルがシオニズム原理主義から脱却しないかぎり、中東に平和は訪れません。私にすれば、イスラエルがユダヤ人の名の下にああいう虐殺を続けること自体が許せません。どうか、すべてのユダヤ人がイスラエルを支持しているなどと思わないでいただきたい。」

 アイザック・バシェヴィス・シンガーの小説に『敵、ある愛の物語』というのがある。その根底に「ユダヤ教的敬虔主義」を読む慧眼の読者もいる。そのような敬虔は、今のイスラエルではイデオロギーの力で抹殺されている。ユダヤ人はユダヤ人でなくなっているのだ。


<プロフィール>
大嶋 仁
(おおしま・ひとし)
 1948年生まれ、神奈川県鎌倉市出身。日本の比較文学者、福岡大学名誉教授。75年東京大学文学部倫理学科卒。80年同大学院比較文学比較文化博士課程単位取得満期退学。静岡大学講師、バルセロナ、リマ、ブエノスアイレス、パリの教壇に立った後、95年福岡大学人文学部教授に就任、2016年に退職し名誉教授に。

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