経済小説『落日』(14)再出発
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谺 丈二 著
「抜本的な手を打たないと遠からず朱雀屋はダメになります。すべてトップにおんぶに抱っこです。組織が機能していません」
井坂は2人から聞いた話を基に朱雀屋の状態を杉本に報告した。
「さらに例の件ですが一部は融資で充当するしか手がないようです」
「社債償還か・・」小さくつぶやいた後、杉本が続けた。
「いくらといってきている?」
「片手です」
「50億か。今の朱雀屋には小さくない額だな」
「日銭8億の現金商売だからすぐにどうってことはないでしょうが・・」
「そうは言っても中身がともなっていないからねえ。そろそろ手の打ちどきか・・」
「そうですね。このまま行くと当行も相当な傷を被ることになりますからね。行員の間でも、結構不安が広がっているようですから・・・」井坂が頭取の加藤から呼ばれたのは年明け間もないある日の午後だった。
「だいたいのところは杉本専務からうかがいました。融資担当としてあなたはどう見ているのですか? 景気低迷のなか、業績不振の融資先の経営を傍観すれば結果は自ずと限られるはずですよね」
加藤は不機嫌そうに言った。
「融資の額も小さくないし、借り換えという追い貸しでお茶を濁していると取り返しがつかないことになりませんか?」
ここ数年来の経済情勢から見て業績不振の取引先は、よほど強力な経営管理をしなければ融資はいとも簡単に不良債権化するというのが加藤の持論だった。それを防ぐためには銀行が自己責任で経営を指導しなければならない。
「あなたとあなたの人脈が播いた種です。刈り取ってきてください」
空調の利いた頭取室で朱雀屋に対する自分なりの分析をいくつか短く井坂に告げた後、加藤は静かに抑揚のない声で言った。人脈というのは当然、杉本と井坂のことを指していた。
その数日前、加藤は杉本に井坂の朱雀屋派遣を打診していた。杉本に反対する理由はなかった。下手に躊躇すれば自分が派遣される可能性さえ出てくる。加藤の提案を杉本はその場で受け入れた。
一向に業績改善の兆しが見えない朱雀屋の経営を抜本的に改善するには直接介入するしかない。加藤はこの半年ほどその手順と方法を考え続けていた。
朱雀屋は文字通り創業者朱雀剛三のワンマン会社で、朱雀はあらゆる場面で経営の細かい部分まで口を出すのが常だった。そんな創業者を抑えて経営の主導権を奪うことは文字通り革命である。朱雀の影響を力ずくで排除し、経営をコントロールするには強靭な意志と不退転の決意を持つ人間を充てるしかない。加藤は銀行内のあらゆる人間たちに思いをめぐらせた。
時代の変わり目に役に立つのは仕事熱心さに加えて人並み外れた警戒心と非情さ、さらに強い権力志向を持つ人間というのが加藤の基準だった。正義の物差しも多少曖昧なほうが良い。改革は既存権力への裏切りでもある。下手な正義感と人間的な豊かさはかえって改革の邪魔になる。
加藤は井坂の人となりをよく見ていた。病的な猜疑心、適当に外敵を恐れる用心深さ、自分の信念を通すためならたいていの労苦をいとわない強い意志。これら朱雀屋支配のための条件を考えると行内に井坂を上回る人間はいなかった。
「できることなら専務に行っていただきたいのですが、たかが小売業に当行の専務というわけにもいきませんからねえ。とりあえずあなたには次の発令で取締役になっていただきます」
加藤は最後まで嫌みな言い方をした。
「ありがとうございます」
加藤の内示に対して、胸の内とは逆な言葉が井坂の口をついた。取締役内示と同時に井坂の銀行人生が終わった瞬間だった。
「頭取、ぶしつけな質問ですが、私をお気に入りいただけなかったのはなぜでしょうか?」
感謝の言葉からしばらく間をおいて井坂は意を決し、半ば開き直って言った。通常、西総銀の審査部長といえばボードの一員だが、前任の杉本と違って井坂は取締役ではなく、参与部長の職位だった。
「ん?」
井坂の質問に一瞬怪訝そうな顔をした後、加藤は軽い不快を頬の辺りに浮かべて窓の外に目をやった。
MOFのキャリアとして、その仕事人生のなかで有力政治家以外は恐れるものがなかった加藤だった。当然、銀行でも他人に気を遣うということとは無縁だった。そんな加藤にとって、井坂の質問はたしかにぶしつけに違いなかった。
「そうですねえ。いうなればあなたの熱心すぎるところですかね・・。もちろん、経営には努力が不可欠です。しかし、それがあまり表に出過ぎるとスマートさがなくなります」
井坂の質問を否定することなくそういうと、加藤は窓に向かって歩き、両手を後ろに組むと井坂に背を向けたまま足を止めた。
「ご承知のように私たちの仕事は経済という国の循環器をつかさどる仕事です。それなりの社会的使命があります。仕事熱心なあなたには理不尽かもしれませんがその意識こそ、バンカーとして最優先すべきものです。いうなれば哲学の部分ですよ。品位というか、わかりやすくいえば武道と武術のちがいですかな・・」
言い終えると加藤は再び窓際にゆっくり歩を進めた。
加藤の言葉は、井坂にとって無礼をはるかに超えた峻烈なものだった。こめかみの血管が熱くなるのを感じながら、井坂は眼の奥を硬くした。「それはそれとして、銀行としてはできるだけあなたを応援しますよ」
しばらく間をおいて、加藤は井坂の怒りを見透かすように鼈甲をあしらった金色のフレームの眼鏡を外し、微笑みながら井坂に向き直って言った。
体の半分が怒りで膨らみ、残りの半分が逆に萎えていくような言いようのない重苦しさが井坂を襲った。2つの気持ちを必死でなだめながら、井坂は微笑んだままの加藤に軽く一礼した。
「終わりか・・」
頭取室のドアを閉めながら井坂は頭のなかで呟いた。
不思議なことに部屋を出た途端、なぜか怒りで凍りついていた気持ちは嘘のように思われ、代わりにその胸に穏やかな気持ちが生まれた。「新天地で出直しだ」
退職金に加えて、年間売り上げ3,000億の企業がもらえたということである。考えようによってはけして悪い話ではなかった。うまく立て直して3倍の規模にすれば1兆円のトップも夢ではない。井坂のなかで持ち前の負けん気が頭をもたげた。
(つづく)
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