2024年07月17日( 水 )

経済小説『落日』(15)同床異夢

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谺 丈二 著

「結局、朱雀屋だ。君にも一緒に来てもらうよ」

 頭取室から戻ると、井坂は犬飼を呼び、その意向を聞くこともなく朱雀屋行きを告げた。

「もちろんです。改めて精一杯お仕えします」

 犬飼に井坂の誘いを拒む理由はなかった。井坂の下で実行した派閥づくりも曲がり角に来ていた。当初は慎重、巧妙に仲間をつくっていたが、その数が増えるに従って井坂を頂点とする派閥が公然と噂されるようになる。その行動隊長の犬飼には少なからぬ敵が生まれていた。

 さらに、加藤という天下りがトップに座った以上、よほどのことがない限り、しばらくは生え抜きが頭取に就くことはない。猟犬と違って、彼らは一度手にした獲物はまず手放さない。

「これも運命か」

 半ばさばさばした気持ちで犬飼は井坂の部屋を辞した。

 犬飼はO県の小さな町の出身だった。幼いころから頭脳明晰で狭い町では神童と呼ばれた。父親は小さな建設業を営んでおり、中学に入ったころから、暇を見つけてはその仕事を手伝った。しかし、町での事業はたかがしれていた。父の建設業はいつまでも零細なままで犬飼が高校を卒業した辺りで倒産に近い廃業。犬飼家にはいくらかの借金が残った。

 犬飼に対抗するグループは犬飼を攻撃するのにこの家業の失敗を使った。犬飼の父親が多額の借金を踏み倒し、逃げたという噂を立てたのである。噂は瞬く間に銀行内部に広がった。それは事実とはかけ離れたものだったが、時間の経過とともに消えるどころか真実味を増して語られるようになった。加えて井坂が朱雀屋に出るとなれば、希望の糸は完全に切れる。普通の企業ならともかく、銀行では例外を除いて敗者に色づけされた人間が復活することはない。犬飼に選択の余地はなかった。

 バブル崩壊以降こそ、その権威がいささか揺らいでいるが、複数の大企業からなる財閥グループでもその扇の要にはたいてい銀行が鎮座している。企業の糧として必要なものは言うまでもなく金である。金こそすべての支配をつかさどる魔法の杖である。そして杖の力はそれを手にするものとしばしば一体化する。銀行員がまさにその典型だった。金をコントロールできることで他の産業を自分たちのそれより低く見ている銀行員は、優秀な人間ほどその人生を最後まで銀行で過ごしたいと思っている。

 犬飼は優秀な銀行員だった。加えて父の苦労を見て金の力を思い知ってもいた。そしてその思いは、銀行というまさに金がものをいう世界に入ってさらに強くなっていった。

 羽振りのよい時は銀行など星の数ほどあると豪語しておきながら、景気が悪くなると御行しかないと土下座する経営者を犬飼は嫌というほど見てきた。銀行を出るということは犬飼にとって軽いことではなかった。

 朱雀屋の経営に携わることは場合によっては自分の立場がかつての父親と同じになるということでもあった。そうならないためには徹底した数字と服従の武装管理で朱雀屋を支配し、短期間で業績を回復させるしかなかった。銀行は容易に潰れないが普通の会社は簡単に潰れる。

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 内示から1週間もしないうちにどこから聞きつけたのか牧下と太田が駆けつけてきた。

 F市の歓楽街中洲にある名の通った寿司屋の個室で、犬飼を加えて4人は杯を傾けた。4人で飲み食いすれば10万円は下らない店だった。銀行の役員でもそうちょくちょく来られる所ではない。銀行での出世は潰えたが、新しい世界も考えようによっては悪くない。犬飼は贅沢な寿司をつまみながらそう思った。

 久しぶりに牧下と太田は機嫌がよかった。太田にとって井坂が来るということはそのまま資金繰りの苦労が薄くなるということを意味していた。牧下は畑違いの井坂が自分を重用するだろうと計算した。朱雀の下では子飼いの役員それぞれがライバルとして存在するが、井坂がトップとなれば状況はまったく違ってくる。社内には自分ほど井坂と親しい人間はいない。4人はそれぞれに新しいシーンに思いをはせた。

「朱雀屋には創業者によってつくられた腐った澱のような風土があります。まずこれを取り除くことに全力を尽くします」

 井坂は杉本に別れの挨拶をした。

「戦争だな・・」
「はい、でもいかに朱雀さんでもここまで来れば形勢の変化を認めるでしょうから」

 井坂は薄く笑いながら杉本を見た。

「油断は禁物だね。有能な経営者の最大の特徴はあきらめが悪いことだ。私が見る限り朱雀さんも極めて有能だ」

 杉本は本気とも冗談ともつかない表情で言った。

「それはそれとして少しわがままをお願いしたいのですが」

 井坂は杉本の言葉を気に留めるそぶりも見せず、犬飼を含む何人かの名簿を杉本に差し出した。

「お安い御用だ」

 杉本の顔にいつもの元気はなかった。いずれ杉本がと噂された副頭取に、MOFの局長OBの招聘が内定したという噂のせいかもしれなかった。もしそれが事実なら、たとえ杉本に頭取の座が回ってきてもそれは短期の中継ぎに過ぎない。もちろん、その前に関連会社に出される可能性の方がずっと高い。

 長い間続いた2人の二人三脚の終わりだった。加藤の天下りがなければ、2人は最高幹部として西日本総合銀行に君臨できたかもしれなかった。

 杉本の部屋を辞すと井坂は西総銀本店の屋上に出た。ビルの谷間を走り抜ける強い風が井坂の体を圧した。

 しばらく空を見上げた後、井坂はゆっくりと歩き、ある一角で足をとめた。その足元のはるか下には頭取室があるはずだった。井坂はポケットに手を入れたまま、足下に視線を落とすと小さく呪いの言葉を吐いた。

(つづく)

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