2024年12月23日( 月 )

経済小説『落日』(18)懐柔1

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谺 丈二 著

「時代と環境が大きく変わってもそれに気がつかない人間は多い。とくにここはワンマンとそれに盲目的に追随する風土だ。社員は寄らば大樹に慣れきっているだろうからな・・」

 井坂が舗道を隔てて顧問室の窓から見える大学病院の裏庭にある大きなクスノキに目をやりながら言った。

「ま、金融機関の人間に比べれば、責任感も使命感も薄っぺらなのが商売人ですから」

 犬飼がそれを肯定するように目で薄い笑いで頷いた。

「それでも何とかとハサミは使いようだ」

 クスノキから犬飼に視線を移し、井坂は冷めた緑茶を口に運びながら薄い笑みを浮かべた。

「とりあえず能力がありながら冷遇されている人間をピックアップしています」
「うん、冷遇から厚遇に代われば、人間はその恩を倍にして返してくれるもんだ」
「合わせて朱雀さんがとくに可愛がっている人間にもあたっています」
「そうだな。簡単にはいかないだろうが、そこらの連中は徹底的に懐柔してみることだ。自信家にとって腹心が寝返るほどショックなことはないからな」
「シーザーとブルータスですか。ところで、牧下専務は大丈夫ですか」
「わからんな。見たところは完全にこっち側だが、朱雀さんには何と言っているものやら」
「しかし、いくら何でも、もう流れが元に戻るとは思っていないでしょう。若手幹部も井坂顧問の登場に結構興味をもっているみたいですからね。彼らの反応は悪くはありません」

 犬飼がタバコを取り出しながら笑顔で井坂を見た。
「お前さんはそんなところが甘いんだ。どんでん返しというのは小説の世界だけじゃない。永木の件を忘れたのか」

 井坂が急に真顔になり犬飼をたしなめた。

「すみません」

 かつての失敗を引き合いに出され、犬飼は煙草に火をつけようとしていた手を止めて頭をかいた。

「それに優秀な経営者の共通点はあきらめが悪いことだ。どんな手を使ってでも巻き返しを図って来ると思った方がいい」

 井坂は銀行を去るとき、杉本が口にした一言を思い出しながら念を押した

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 確かに井坂のいう通りだった。永木の件以来、犬飼は井坂から脇の甘さを指摘されることが何回かあった。そんなときの井坂の思考回路は自分とは明らかに違っていた。その老獪さはまさにもって生まれたものといってよかった。大きな仕事になるほど、井坂は尋常でない用心深さとしつこさをもって臨んだ。そのやり方は単に管理や審査畑が長いということだけでは測れない。

「いくら流れがこっちにあっても頭数は頭数だ。しかもなかには朱雀さんの後ろ姿に合掌する人間もいるというじゃないか」

 訪れた店を去る朱雀の車を合掌して見送る店長がいることを井坂は牧下から聞いていた。その姿を車中から朱雀はじっと見ているという。姿が見えなくなるまで低頭して自分を見送る店長を朱雀はそれなりに評価するのだという。

「小売は業務も単純じゃないだろう。銀行の支店のようにはいかん。わしらの仕事は経営再建と債権回収だ。どんな時でもこの2つは容易じゃない。時間はあるからとにかく焦らず、じっくりだ」

 静かな緊張が井坂の眼に滲んでいた。社内の風を力づくでも自分に向かせ、業績不振を絡めて徹底的に朱雀を糾弾し、権威を失墜させ、自分が経営の実権を握り、最後には組織から朱雀を追い出す。それが井坂の朱雀屋再建計画だった。

「とにかく1万3,000人、3,000億だ。当の朱雀屋の人間にはその大きさも価値もよく分かっとらんだろうからな」

 井坂はソファーを離れ、大きく息を吐きながら両手を背中に当てて背筋を伸ばすと数回、ゆっくり首を回した。

「わかりました」

 犬飼が小さく頷いた。

(つづく)

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