経済小説『落日』(19)懐柔2
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谺 丈二 著
より迅速な経営改革のために井坂が考えたのは自分の存在の周知だった。まず、もっともらしい管理ルールをつくり、より速いその浸透を図る。そのためには、信賞必罰という餌と恐怖を併せて意識させることも必要だ。組織経営に名を借りた自らへの権威づくりである。朱雀というカリスマ色を薄めるためにも、それを速やかに実行しなければならない。
犬飼にも彼なりのシナリオがあった。井坂を権威で固めて、権力は自分が握る。将来は両方とも自分が手にする。とはいうものの、朱雀屋の店舗は3ケタでしかも九州各地に散らばっている。店舗の人員も展開エリアも銀行とはずいぶん違う。関連会社も少なくない。犬飼は胃の辺りを固くしながらとるべき戦略を思った。
犬飼が部屋から出ていくと、井坂は大学病院とは反対側にある窓の外に眼をやった。小さなビジネスホテルを挟んで狭い道に沿って、猫の額ほどの庭が付いた古い民家が雑然と並び、その前を加藤清正が灌漑用に築いた石づくりの水路が通っていた。
銀行の役員室からの眺めとはずいぶんと趣が違う。窓からの風景をしばらく眺めた後、井坂はデスクに戻り、軽く目を閉じた。間もなく55回目の誕生日がやってくる。文字通り働きに働きを継いだ銀行人生だった。しかし、その終焉は彼にとって予想外のものだった。そして、その終わりとともに新たな仕事人生が始まろうとしている。銀行と違って朱雀屋での井坂の立場は絶対的なものになるはずだった。やりたいことを誰に遠慮することなくできる魅力も小さくはない。業績不振の朱雀屋を立て直し、業界で押しも押されもしないエクセレントカンパニーとして再生する。加藤達雄を見返すにはそれしかなかった。
勇猛なリーダーに率いられて成長の急坂を駆け上がってきた朱雀屋だったが、栄光の期間はそう長くはなかった。時間の経過とともにそのスピードは鈍り、時代の嗜好変化とともに下降が始まった。
市場環境の変化は過去の成功手法をただの幻影に変える。だが、そのことに気付き、成功体験を捨て、やり方を変えるのは至難の業である。成功者がその過去を否定するというのは自分自身の歴史の否定でもあるからだ。成功は美酒であり、たとえその酔い心地が遠い過去のものであるとしてもそれは忘れ難い。加えて成功の経験は人間と組織にある種の誇りをもたらす。そしてそれは時間がたっても容易に色褪せない。
社員にとってもそれは同じだ。現実が厳しいときほど過去の成功体験がその反復を強くささやきかける。かくして定義の陳腐化は修正されることなく営々と続き、さらなる泥沼へと沈んで行く。
朱雀が変わらない限り役員、社員の行動も変わらない。だが、カリスマ経営者の朱雀にその成功体験の否定を期待するのは砂漠に水を求めるも同然だった。最終的には朱雀本人を組織から抹殺しない限り、朱雀屋の風土は変わらない。
営業幹部も同じだった。その昔、業界では朱雀屋が通った後は草も生えないと言われた。そんな評価経験を持つ幹部のプライドは小さくない。それは錆びつき、動かしようがない鉄の歯車にも似ている。そんな経営環境を根本から変えるために朱雀を早急に組織から消し去り、自分が取って代わらなければならない。
一日でもそれを早く実現するためには若手幹部の説得を犬飼に任せるだけでなく、自らも直接、それを実行しなければならない。もちろん、それは容易ではない。
しかし、井坂は、それまでの経験からワンマン会社の社員がその歴史のなかで生殺与奪の権を握るものに逆らった場合、どうなるか身をもって体験していることを知っていた。
ワンマン朱雀が率いてきた朱雀屋という組織のなかで出来上がったこのビヘイビアだけは、トップが変わってもおそらく変わらない。
確かに朱雀剛三は一筋縄ではいかない。しかし、時代、組織の違いを問わず、たいていの人間は勝ち馬に乗りたがる。いったん流れが変わると、それは一気に朱雀から自分に傾く。井坂はそう確信していた。
(つづく)
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