2024年12月23日( 月 )

経済小説『落日』(22)ワンポイント2

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谺 丈二 著

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 5月の株主総会を経て、稲川社長と井坂副社長が誕生した。地元の老舗料亭『お多福』で幹部社員を集めて開かれた社長就任の祝宴の席で、会長になった朱雀は上機嫌を装った。

「これで私もやっとゆっくりできます。実はこの日が来るのを待ち望んでいました。これからは社長、副社長を中心に会社は大進化間違いなしです」

 冒頭のあいさつでひとしきり稲川広太郎と井坂を持ち上げた後、朱雀は幹部、役員全員の席を回り自ら酒を注いだ。

「ま、しばらくは死なんでしょう。逆に燃え尽きる前の蝋燭のようにこれまでより張り切って燃えるんじゃないですか」

 宴もたけなわのころ酔いのまわった牧下が井坂のところにやってき当たり障りのない会話の後、朱雀のほうをちら見しながらその耳元でささやいた。

 それに応えて井坂はまあ、まあというように無言で牧下の肩をたたき、そのグラスにビールを注いだ。

「ま、お手並み拝見と行きますか」

 注がれたビールに軽く口をつけると牧下は次に稲川の批判を始めた。2人の確執は社内のだれもが知っていた。

 もともと仲の良くない2人だったが、朱雀屋が初めて手掛けたF市の大型店で初代店長の牧下が残した莫大な棚卸ロスの後始末に稲川が苦労してからというものは、その仲はますます険悪になっていた。

 同じ専務取締役で年齢では稲川、社歴では牧下という2人はことあるごとに意見を対立させたが、その原因のほとんどは牧下の理不尽さにあった。

 牧下は朱雀の直弟子を自認していた。20歳前から朱雀にかわいがられた牧下は朱雀に気に入られるためには何でもした。

 その1つが朱雀の書体をまねることであった。その書体を必死に真似続け、そのうちに朱雀とそっくりの字を書くまでになった。加えて、朱雀の意向なら公私にわたってどんなことでもそれを実行した。それらの行為のすべての根元にはいつの日か自分が朱雀の後継者として朱雀屋に君臨しようという野望があった。

 そんな牧下だったから、朱雀が自分より他人を少しでも優先して評価するとたちまち機嫌が悪くなった。どんな時でも朱雀の次は自分でなければ気が済まなかったのである。

 稲川が自分より先に副社長になったときにはへそを曲げ、しばらく出社しなかったという子どもじみた行動をとって、周りの顰蹙を買ったこともあった。稲川の社長就任も当然、面白くなかったがその仕事がワンポイントと知っていたこの時ばかりは、表立って怒りをあらわにすることもなかった。

 創業社長の退任という発表は朱雀屋の内外に少なからぬ衝撃を与えた。これでやっと普通の会社になるという声や、代表権があるというのはまだまだやる気だという意見がそこかしこでささやかれた。

 就任以来、社長室には表敬訪問の客が引きも切らなかった。稲川広太郎は一部上場という会社の重みを実感した。思えば短くない朱雀屋での四半世紀の年月だった。

 朱雀から誘われ、軽い気持ちでアパレルメーカーから朱雀屋に転じたものの、朱雀に翻弄され何度も挫折しそうになりながら耐えてきた稲川だった。

 一時は経営方針をめぐって朱雀と対立し、左遷の果てにラーメン屋でもやろうと真剣に考えたことさえある。当然、ワンマンの弊害は実感していた。そんな稲川は機会あるごとに行動の価値基準を創業者から顧客へと変えることを訴えた。

 しかし、やはり朱雀はカリスマだった。稲川の必死の訴えにもかかわらず、役員会の席では相変わらず会長の朱雀を中心に事が運ばれた。専務の1人である長男の一茂を除いて、どの役員も朱雀剛三の意を中心に行動した。一般社員も同じだった。そんなシーンを目にするたびに井坂はただならぬ朱雀の力を改めて実感した。

 幹部を含めて社員のほとんどが職位の上下を問わず、私的な会話のなかでは朱雀を批判するものの、公の場になるとそれは一変する。朱雀の一言はほかの役員の千言よりも重かった。

 役員会も表向きは稲川社長を中心に合議制とはいうものの、実際は朱雀の一人舞台だった。そんな役員会の様子を井坂はいつも醒めた目で見ていた。もちろん、自分から積極的に発言することはなかった。

 井坂が副社長になって半年があっという間に過ぎた。本格的な出番はもうすぐだったが、業績は相変わらず回復の兆しを見せなかった。しかし、業績の低迷は井坂にとってむしろ好都合だった。業績が改善の兆しを見せるということは井坂が稲川と交代する理由が薄くなる。下手をすると朱雀までより元気になりかねない。

 井坂がもくろむ劇的な業績改善のためにもその不振はむしろ歓迎すべきことだ。

(つづく)

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