経済小説『落日』(25)権力転換
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谺 丈二 著
『1人がつくった会社から1万人がつくる会社へ、1000店舗・1兆円』
5月の株主総会を経て、井坂の社長就任は華々しいスローガンで社の内外に披露され、新生朱雀屋がスタートした。
スローガンの1人はいうまでもなく朱雀剛三その人だった。井坂は新生朱雀屋のスタートにこれ見よがしに創業者の否定を掲げた。地元の有名ホテルに朱雀屋幹部と取引先を集めて開かれた新社長就任披露のセレモニーには2つの意味があった。1つは創業者の権威が消えたという告知。もう1つは新しい権力者のアピールである。
朱雀子飼いの役員に加えて銀行からきた数人が新しく役員に座り、犬飼と大場も取締役に就任していた。そして、労使一体という名目で朱雀屋労連会長の原田が取締役として紹介された。朱雀屋労組から初の役員登用だった。
それに先立つ朱雀屋の幹部会は社員にとってまさに衝撃だった。早朝から始まる定例幹部会議スケジュールが大きく変わった。まず、お参りが消えた。
かつては公共放送までが取材にきた早朝勤行の廃止は、権力者交代の象徴的な出来事だった。午前8時半という銀行の始業と同じ時間に始まった新しい会議の社長訓話も同じだった。司会者はそれまでの『社長のお話』という言い方を「社長示達」という官庁用語に変えて井坂の登壇を促した。
奇妙な違和感と新しい支配者の匂いが200人を超える幹部社員の間に漂った。井坂の思惑通り、そのことはまさに権力の転換を幹部社員に鮮明に印象付けた。
井坂は小柄な体を黒に近いグレーの縞のスーツに包み、演壇に両手をつき、覗き込むように社員を見回しながら『わがままな経営』という半ば嫌味な表現で朱雀の経営を批判した。その言葉が繰り返されるたびに会場に音のないどよめきが広がっては消えた。
社員にとって朱雀が公の場で他人から否定されるのを見聞きするのは初めてのことだった。井坂の口から朱雀の名前が出るたびに、社員は視線だけを動かして井坂と朱雀の顔を見比べた。棘のある言葉が井坂の口からもれるたびに朱雀はただ黙って天井に目をやった。
繰り返し朱雀を否定しながら、最後に井坂はこれまでの3倍働くことが朱雀屋再生の唯一の方法だと訴えて席に戻った。
井坂に続いて登壇した朱雀は退任の挨拶でただ社員への感謝の言葉を口にした。そして、新社長への期待と激励の言葉に持ち時間のほとんどを当てた。
朱雀には自分の立場が痛いほどわかっていた。檀家総代をしている寺の敷地を借りてこの研修所を立てて15年。朱雀はこの場所で経営への情熱と自分の思いを社員へ訴え続けてきた。
話を終えた朱雀の背中に200人を超える幹部の拍手がこだました。井坂も頭の上に手を挙げて拍手をしている。朱雀剛三の40年におよぶ支配の事実上の終焉だった。
井坂太一による組織改編は大幅なものだった。そしてその中心に銀行式の本部集中管理が座っていた。各役職の呼称も審査役や調査役といった銀行方式が採用された。そして商品、人事、総務、営業のすべてのトップに銀行出身者の名前があった。銀行式武装管理で情緒的と言われた朱雀屋の風土を一気に変えようという井坂の目論見が組織変更にはっきり見てとれた。
「何もかも朱雀さんの言いなりですからね。組織も何もあったものじゃありません。とにかく思いつきで営業をいじるんです。方針もころころ変わる。経営じゃありませんね」
朱雀屋にきて以来、井坂はそんな愚痴にも似た意見を社の内外の関係者から嫌というほど聞かされてきた。
支配者が変わるとき、たいていの人間は自分の利益のためにあるべき正義を語る。そしてそれは斜陽の権力者を悪し様にいうことでより効果をもつ。加えて事実を誇張することも普通に行われる。
新しい支配者に対し、旧体制の幹部はその地位を守るために、そうでなかったものは新たに地位を手に入れるために。朱雀屋幹部のほとんどが井坂の意に添うように朱雀を否定した。
本来は割り引いて受け止めるべき創業者の否定を井坂は額面通り、そして心地よく受けとった。
井坂が指名して銀行から招聘した財務や人事のエキスパート、営業支店からの出向組は賄い付のマンションに同宿し、タクシーで揃って早朝からほぼ無休で朱雀屋本社に出勤し、それぞれのセクションで実務に取りかかった。
銀行からの派遣組の休日返上業務は社員への無言の精励要求だけでなく、銀行に対する自分たちの働きぶりのアピールの意味もあった。もちろん、井坂がその先頭に立ってのことだった。
招聘組に現場内容を詳しく分析させ、経営実態を正確に把握するという井坂の計画はかたちの上では一応、順調に進んだ。そのなかでもとくに井坂が気にしたのが幹部の能力の掌握だった。
井坂は銀行から人事部長として出向してきた津上洋一に、正確な能力査定とその結果の人員配置を犬飼と検討するよう指示していた。さらに、それとは別に朱雀に対する幹部の思い、評価を念入りに調べるように促した。それは新しい支配者である自分への従順度の色分けに使わなければならない。
当初、銀行から派遣された人間たちも朱雀屋は典型的な放漫経営の会社であり、販売管理費を軽く絞るだけで濡れた雑巾から水が滴るように簡単に利益が出ると考えていた。
しかし、朱雀屋幹部の実務レベルは彼らが考えていたようなものではなかった。各方面から報告される調査、分析の結果は幹部社員にはそれなりの能力があり、営業の問題点もその大方は解決が容易ではないという意外なものだった。
「思ったよりレベルが高いですね」
役員応接室で人事関連の資料を見ながら人事部長の津上が常務の河田勇作に言った。
「そうだね。ワンマンに引きずられた程度の悪い社員集団だと思っていたが、いささか考えを変えなければならんね・・」
「まったく・・。素材という面から見たら、うちの銀行の連中よりレベルが高いのが結構いますよ」苦笑いとともに津上は河田を見た。
「しかし、組織経営といっても今までトップダウンが唯一の経営ジャッジだったでしょうからね。いくら社員が優秀でもいきなり自走となると容易じゃないでしょう」
「そりゃそうだろうね」2人は自分たちの思惑も交えながら幹部社員の面接結果とその評価を逐一確かめていった。
「とにかく、新組織は取り急ぎつくり上げますので後は犬飼さんや河田さんにそれをうまく使っていただければ」
検討が一段落した後、銀行の人事畑一筋の津上は割り切った言い方をした。そこにはこの仕事をさっさと終えて銀行に帰りたいという響きがあった。
(つづく)
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