2024年12月23日( 月 )

経済小説『落日』(26)新体制スタート

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谺 丈二 著

 銀行からの出向組には3種類の人間がいた。井坂や犬飼のように退路を絶った人間、津上のように朱雀屋のリスタートのために一時的に派遣された人間、そしてもう1つはどちらにも属さない人間であった。

 河田は3番目の人間だった。銀行時代、井坂との接点はなかったが支店長定年の後、本店の部付部長で再就職を待っていたところに降ってわいたように朱雀屋役員の話がきた。肩書は常務だった。もちろん河田に断る理由はなかった。河田は人の好い陽気な人間であり、いかにも銀行員然とした真面目さももっていた。彼は再就職先にそれなりの情熱をもって貢献しようという気だった。

 井坂の社長就任に合わせて西総銀からやってきたかつての同僚たちは組織と運命を共有するもの、腰掛だけのもの、そのどちらでもないものと、それぞれの思いのなか、朱雀屋で動き始めた。

 経営者の交代は組織のなかでの単なる点の交代ではなかった。仕入部署だけでなく、開発部門にも同じような数限りない取引業者のアプローチが、銀行経由で始まった。

 銀行からの紹介ということで、むげに断ることもできない卸業者からのアプローチを処理するため、朱雀屋の各部署は実りのない作業に忙殺されることになる。

「なあに、ちょっとしたきっかけで業績はすぐよくなる。要するに働きの量とスピードだよ」

 組織編成作業が一段落した後の犬飼と大場、原田の役員就任祝いを兼ねた仲間内での慰労会で井坂はいつになく上機嫌だった。

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 F市の歓楽街にある行きつけのクラブを借り切っての慰労会には犬飼と大場のほかに銀行系の役員、加えて犬飼が懐柔した若手幹部、以前から井坂と親しかった少数の取引業者が参加していた。

「いやあ、一時はどうなるかと思ったねえ。まさにワンマンの弊害ここに極まれりだったからねえ」

 そう言いながら井坂のグラスにビールを注いだのは銀行時代から井坂と親交があり、朱雀屋の取引先でつくる親睦会「朱雀屋会」の次期会長に井坂の肝いりで内定していたM乳業役員の広田だった。

「井坂社長のおかげで今度こそ、公平公正な競争ができそうだ」

 井坂のグラスを満たすと、広田は次に商品部長の長村克己に銀縁のメガネの奥の細い目を光らせて微笑みかけた。

「長村さん、R乳業さんはいい商売をなさってますよね。うちも今度は頑張りますからよろしく」

 半ば高圧的な匂いのする口調に加えて、片手で長村のグラスにビールを注ぎながら広田が言った。

「そうはおっしゃっても地域の嗜好や部、課内の取り組み方針もありますからね。いきなり一気にというわけにはいきませんよ」

 井坂の影をちらつかせながらの広田のトップセールスに、長村は不愉快そうに口をゆがめた。

 新生朱雀屋の社員への判断基準は新しい支配者の意にそうかどうかという1点だった。明らかな恭順を示さない人間には徹底した人事的報復を加えるのが井坂のやり方だった。長村が犬飼から部署替えをにおわされてM乳業との取引高を一挙に増やしたという噂が社内を駆けめぐるのにそう時間はかからなかった。

 石頭と揶揄された長村でも新しい権力に靡かなくては組織の中枢で生きていくのは不可能と悟ったようだった。

 大きな仕事をしたかったら『無事これ名馬』井坂が社長になってからはこの考え方が組織に広がり始めた。

「特別な人間はいらない。基本業務を確実にこなすだけでいい。そうすれば業績はすぐに改善する。言ったことを素直に実行する人間だけでまとまれば効率の良い組織になる」

 考えるのはこっちの仕事とばかり、犬飼も井坂同様の考え方で銀行時代の企画の感覚で組織運営にあたった。しかし、犬飼のこのやり方はうまくいかなかった。

 基本に忠実というのは口でいうほど簡単ではない。銀行と違って小売業には膨大な取扱商品と四六時中変化する市場がある。これをうまくコントロールするには基本に忠実といった抽象的な方針だけではことをうまく運べない。

 加えて、経営企画室のメンバーとして犬飼が選んだ若手の多くは家庭の事情や現場での評価が今1つということで、本部に勤務していた人間たちだった。暇に任せて結果を分析する机上の仕事は磨いていたが、問題解決のための実務能力や現場との連動という機能はほとんど持ち合わせがなかった。

 そんな人間に限って権限を握った途端、理想を強引に現場で実行させようとする。普通なら一笑に付される取り留めもない提案が、犬飼の強権を経て現場に下りて行った。当然現場は混乱した。

 仲良しクラブの課長が部長の人事を決める。犬飼グループの力はそのうちに社内でそう表現されるようになった。

 華々しく井坂体制がスタートして1期、2年が過ぎた。しかし、業績は回復の兆しさえ見せなかった。

(つづく)

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