2024年12月23日( 月 )

経済小説『落日』(31)残滓

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谺 丈二 著

 そんななかでも、朱雀剛三はいたって元気だった。業績の悪化は経営の中枢から外れた朱雀にとって、むしろエネルギーになったのかもしれなかった。

 朱雀は以前と変わらず直接現場に臨み、指示を出した。もともとカリスマの朱雀だった。その存在感はいまだ、井坂を凌いで余りあるものがあった。社員は井坂と朱雀の間で揺れ続けた。

 そんな朱雀への井坂の怒りは時間の経過とともに憎悪に変わり、それは一日も早く朱雀を排除しない限り、業績は改善しないというところまで燃え上がった。朱雀のにおいのするものはすべて消す。いささかでも朱雀を擁護する発言をしたものは躊躇なく切り捨てられた。幹部社員のなかにはその肩書きのすべてを外され、若い女子社員と机を並べるという悲哀を味わう者まで出た。

「今期でやめることにしたよ」

 石井に朱雀一茂から電話があったのは井坂が3期目の社長に内定してすぐのことだった。石井は短い言葉でその労をねぎらうしかなかった。さすがに陽気な石井もそのときは一茂にかける言葉に窮した。

 井坂は一茂に対して社長が空席だった子会社の朱雀ベーカリーへの出向を命じたのである。ベーカリーの専務は一茂と折り合いの良くない前人事部長の富田和夫だった。

 朱雀ベーカリーは年商50億のしかも赤字会社だった。おまけに、その発足から間もなくのころ、一茂はその社長を経験している。当時の売上は80億。一茂にとって、いわゆる屈辱人事だった。

 何度も誇りを傷つけられて平気な人間は少ない。いつか経営を息子に託したいという父剛三の思いを知って、不本意な処遇に耐えてきた一茂だったがさすがにこの人事で朱雀屋を去ることを決断した。一茂が退くということはいうまでもなく朱雀剛三の望みが絶たれるということでもある。

 石井の予想通り数カ月を経ずして「創業者退職」の見出しが新聞の経済欄に踊った。さすがの朱雀剛三もようやく復権をあきらめたということだった。本格的な銀行主導の始まりと解説記事にはあったが、内部の人間からすれば井坂がきた時からすでにそれはスタートしていた。

 ところが、井坂は創業者が朱雀屋を去った後も執拗に朱雀剛三の批判を続けた。

 改善しない業績低迷の原因をただ朱雀の強権支配の残滓に求めた。その経営改善手法は朱雀剛三の否定と『他社の2倍働け』の単純なものだった。

 『朱雀屋の社員は働かない』、ある時からそう口にし始めた井坂は、そのうちその矛先を銀行出身者にも向けるようになった。

 当初、井坂に同調していた彼らもあまりにしつこい創業者批判に加えて、その矛先が自分たちにも向かってきたことにいささかの違和感を覚え始めた。

「井坂社長の責任追及のキャンペーンは少し度が過ぎているんじゃないですか?」

 西総銀から関連会社部長として出向してきている佐藤秀治は役員応接室で河田勇作に各子会社の月次決算報告を済ませた後、眉を固くして言った。

「ニクソンと選挙戦を戦って勝利したケネディにトルーマンが当選後はすべての反共和党キャンペーンをやめろ、とアドバイスしたという話を聞いたことがありますが、社長の周りにトルーマンはいないんですか? まるでダウンした相手を殴り続けるようなものですよ」

「そうだな、いまだに口を開くと朱雀的体質の撲滅と来るからね。カルタゴの大地に塩をまくローマじゃあるまいし、そろそろ肝心の経営に集中しなきゃならんのだが」

 河田が困ったような顔をして足もとに眼を落とした。

「それですよ。私たちには結果を見る能力しかありませんからね。結果に至るプロセスを握るのは営業幹部です。彼らがやる気になってくれないと・・。彼らも朱雀さんの件に関しては辟易していますよ。何とかならないんですか」

「うん、そうしたいのは山々だが、なんといっても井坂さんは社長だからね」

 歯切れの悪い河田の結論に佐藤は肩を落とすしかなかった。

(つづく)

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