2024年11月23日( 土 )

経済小説『落日』(32)救世主1

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谺 丈二 著

「社長、坂倉先生にお出でいただきました」

 経営企画部の武本紘一が1人の男をともなって社長応接室を訪れたのは八月下旬のある暑い日だった。

「坂倉です」

 武本に紹介された大柄で、妙に色が白い短髪の男は大きく腰を折って井坂に頭を下げた。太い黒縁の眼鏡の奥で厚ぼったい一重まぶたの細い目が笑っている。額に汗が光っていた。

 男が差し出した名刺には『消費生活気象研究所』という聞き慣れない文字があった。

 名前は坂倉健。肩書は代表取締役だった。

「坂倉先生は業界トップのI社ですばらしい改善実績を残されています。かの有名な商品管理手法のいわば考案者です」

 武本は溢れる笑顔で板倉を見ながらさらに言葉を続けた。

「先生は当社の救世主になっていただけるはずです。私も先生のお考えを拝聴しましたが、それはすばらしいものです」

 面白い男がいるとある取引先から坂倉を紹介された犬飼はその事務所を訪ね、坂倉に面会するよう武本に命じた。

 大阪の雑然とした飲食街の一角にある雑居ビルの狭い一室の事務所を訪ねた武本は、ドアを開けた途端、唖然とした。その目に飛び込んできたのはありとあらゆる方法で、書棚に押し込められた書籍や印刷物だった。古びたスチールの机上にもさまざまなサイズの印刷物がひしめき、わずかな隙間にパソコンと古びたライトスタンドが置かれている。

 来意を告げ、お互いの自己紹介が終わるや否や坂倉はいきなりしゃべり始めた。業界事情、コンピューター利用による業務改善、東西の歴史など話題は尽きなかった。武本は豊かな知識を持つ人間ほど人格、能力にも優れていると信じる種類の人間だった。そんな武本を坂倉の知識がたちまち虜にした。

「犬飼常務、諸葛孔明を見つけました」

 武本は勇んで犬飼に報告した。

 そんな坂倉が朱雀屋を訪れたのは武本の訪問から1か月ほど経ってからだった。K空港で坂倉を迎え、本部に戻ると武本はまず犬飼のもとに坂倉を案内した。

「当社は内部改革がなかなかうまくいかない体質ですから、先生にはその点を踏まえて思いきりやっていただきたいものです」

 犬飼は初対面にもかかわらず、思わず弱気な本音を吐いた。

「いやあ、それは当社に限ったことではありませんよ。この国はもっぱら外からのノックでしか改革ができない歴史をもっていますからね。明治維新も敗戦後の変化も同じです。自ら変われないのはいわば国民性です」

 グレー地に黒という濃淡はっきりしたダブルのスーツを身に付けた坂倉は犬飼を慰めるように本気とも冗談ともつかない口調でそういうと、甲高い声で笑った。

 次に武本が訪ねたのは営業本部担当専務の沖松だった。

「専務、先だって役員会でご説明したアドバイザーの坂倉先生です。改めてご紹介します。食品の数値分析と新業態提案がご専門です。すばらしい改善実績をお持ちですから過去私たちがお願いしてきた先生方とは一味違います。」

 満面の笑みを浮かべて武本が坂倉を紹介した。

「いいお知恵をお貸しいただくとありがたいのですが」

 事前の役員会で武本から坂倉の経歴を聞いていた沖松は応接セットに2人を促した後、長身であまり顔色の良くない細面にかけた縁なし眼鏡の奥から、値踏みをするような目で坂倉を見ながら言った。

「思い切って若手を登用しましょう。若さには恐れがありません。今、当社に求められているのはまさに勇気です」

 色白の毛深い手を差し出し、握手を求めながら坂倉が大きな声で言った。

「若手ねえ。お眼鏡にかなうのがいますかな、当社に」

 妙に馴れ馴れしい、いきなりの握手と提案に沖松はやや当惑したように応えた。
「若さだけあれば十分ですよ。彼らに不足するものは我々が補えばいいんです。若さには外連味がない。目的のためには純粋になれます」
 沖松の言葉に坂倉は細い目をさらに細くした。

「革命の言葉で若者はすぐ沸騰します。それこそが改革の力です。どんな時代も革命の主導者は権力に縁がない若者ですから」

 軽く握った拳を脇腹にあてながら相変わらずの明るさで坂倉が続けた。

「若者、よそ者、ばか者ってやつですか。私らには改革できないということですかな」

 半ば侮蔑的な響きを持つ坂倉の言葉を察して、沖松は苦く笑って遠まわしに嫌味を言った。

 若い力を表に出すというのはもともと井坂の持論だった。武本との短時間の会話のなかで坂倉は抜け目なく井坂の意図を感じ取り、この発言を思いついたのかもしれなかった。明るい声を聴きながら、この男は油断ならないと沖松は思った

「当座のご計画は? ご必要なものは何でもお聞かせください」
 沖松は執務デスクの抽斗からタバコを取り出し、セロファンの封を切りながら改めて坂倉に笑いかけた。

「なあに、データの分析のために2、3人いただければ十分です。人選は武本さんにお願いしていますから」

(つづく)

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