2024年12月23日( 月 )

経済小説『落日』(59)決意2

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谺 丈二 著

「戦争だ。まず井坂さんと組む。旧執行部には致命的な弱みがある。会社に協力させればこっちの勝利は動かない。そうしなければ、会社もよくならない」

 大川は腹心でもある書記長の島田進一に権力奪取のシナリオを語った。島田は鷹揚な人柄で、組合員の人望がある。関連会社の幹部や役員からの評判も良かった。

「やるしかないでしょうね」

 大川の提案に島田は別に驚く様子もなく短く答え、大川の顔をじっと見て言葉を継いだ。

「事実であろうとなかろうとこんなことが表ざたになった時点で会社も組合も大変なことになります。なんといっても不利なのは組合です。こうなったら、多少の妥協をしても会社と二人三脚でいくしかないでしょう」
「ところで問題はさしあたっての統一地方選挙だが、木田さんに変えて東はどうだろう?」
「東ですか。いい選択です。硬派で素直、そして若い。代議員からの承認も問題ないでしょう。でも、原田さんや木田さんがなんというか…」
「この件に関しては原田さんには一応通告したが、すんなりとは承知しないだろう」

 大川が薄い笑いを浮かべた。

「島田君、ここは彼らが承知するかしないかの問題じゃない。これは我々にとって戦争だ。我々も食わなきゃならんからね」

 大川から、井坂が時々口にする「食わなきゃならんから」という言葉がこぼれた。大川は正直、この言葉が嫌いだった。食うということですべてを計ると、そこにはルールの入り込む余地がない。しかし、組合活動の基本はルールの順守が何よりも優先される。ルールがなければ相手との平和的かつ対等の交渉はできない。井坂の口癖は「食わなければならない」と「緊急避難」だった。交渉が暗礁に乗り上げるとこの2つで組合に譲歩を迫った。そのやり方に大川はいつも嫌悪を覚えた。会社の存亡は働く者にとって最後の砦である。その部分を人質に取っての交渉は対等どころか一方的になるのが当たり前だった。井坂が社長になって以来、そんな構造をずるずる引きずったまま今に至っている。

 旧組合幹部の不正疑惑は組合にとって単純な問題ではなかった。朱雀屋労組の旧執行部の多くは問題の施設にすでに経営幹部として転籍している。会館の営業対象も組合員だけではない。もし、会社に何かが起こっても、会社と資本関係が薄く一般客も相手にしている会館の彼らは安全圏だ。大川には旧執行部のそんな計算が見え隠れした。もし、そういうことなら大川としては現執行部の将来も考えなければならない。生きることは言葉を変えれば、生存か淘汰ということでもある。

 大川は考え方を変えた。弱いものは消える。正義は存在して初めて正義になる。気持ちのなかにいささかの抵抗はあったが、組織の長としての責務はまずその存在を確保することにあった。そうすることで、初めてそこに属する人間とその家族を守ることができる。そして何より組合専従者としての自分自身の歴史と存在を守ることでもあった。

 朱雀屋には労使交渉がいくら紛糾しても最後には労使協調で落ち着くという安定関係があった。大川もこの関係を踏まえて、団交前の組合内会議で過激な要求と実力行使を主張する若手の中央執行委員に、日本の労働争議上、組合が完全勝利したことがない例を踏まえて、その過激な行動をいさめた。会社がなくなることは、社内組織である組合がなくなることと同義である以上、いかなる闘争もその原則を崩すことはできない。

「社長、旧執行部の説得をお願いします。例の件が事実なら、彼らはこの会社からも、組合関連団体からも追放されるべきです。しかし、私も青臭いことをいうつもりはありません。社長の言葉を借りるわけではありませんが、食わなければなりませんから」

 社長室を訪ねた大川は胸の奥から湧き上がる抵抗を押しつぶしながら、思い切って井坂に言った。大川執行部としては、ここは腹を決めるしかない。大川は島田と考えた旧執行部に対するシナリオを井坂に説明した。

「よくわかった。大川君、君たちはまだ若い。会社とは長い付き合いになる。君たちは自分でこの職場を健全に再生させなければならんのだよ。労働基準法は会社を守ってはくれんからね」

 井坂は口元に薄笑いを浮かべながら決まり文句を口にして大川の申し出を受けた。

「お互いがうまく生きていけるかどうか、いまその瀬戸際だ。大川執行部に全面協力するよ」

 話が終わるとソファーに深く座ったまま井坂は猫なで声で言い、微笑みながら右手を差し出した。

(つづく)

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