経済小説『落日』(64)デジャブュ1
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谺 丈二 著
「石井さん、井坂社長もなかなか賢いですね。赤字の原因を不振店のスクラップと有価証券の含み損にもって行くなんて」
決算発表直後の幹部会議の後、石井に話しかけてきたのは商品部の高杉和樹だった。薄い髪に浅黒い顔、度の強いメガネをかけている。一見老けて見えるが実際は石井よりずっと若く、四十を超えたばかりだった。部下との接し方だけでなく、取引先をうまく利用することから『商社マン』のあだ名をもらっている。
「おう、高杉君か。そろそろ商品部の種モミも食い尽くすころじゃないかな」
石井が軽口をたたいた。以前、2人は隣店の店長として親しかった。高杉が商品部に移ってからも2人は時折連絡を取った。石井は高杉に対して財務や商品を操作して利益を出すことを『種モミを食う』と揶揄した。
「いやあ、きょうの命がなければ明日の種まきはできません。でも生きていさえすれば物乞いでも強盗でもできます。それに普通の人間は石井さんのように打たれ強くありませんから」
2人の会話はいつも同じところに落ち着く。高杉は強引な手法と遠慮を知らない性格で、取引先の評判はあまり良くなかった。帳合い変更と称する取引先の見直しも、社内事情最優先で半ば強引に実行していた。取引先からその不当性を公正取引委員会に訴えられたこともあるが、仕事に対する情熱と非凡な交渉力は特別なものをもっていた。いつも単刀直入であっけらかんとしたこの男をなぜか石井は憎めなかった。
「それはそれとして石井さん、この後、映画があるそうですね」
「そうらしいね」
「『ランボー怒りのアフガン』でも見せて、士気を高めようとでも考えているんですかね。それとも新作の決算マジックショーでも公開するのかな」
「もし、マジックショーなら主役は君だろう」
「いやいや、私のやっていることは社長に比べればまだ可愛いもんですよ。ところで石井さん、宗旨を変えて部下にやさしく、上司にゴマすりでそれなりのポジションにつきませんか。外野でいろいろ立派なことを言っても権限がなければそれを実行できませんからね。俺は割り切ってそうしていますよ」いたずらっぽく笑う高杉に石井は無言で笑顔を返した。
「井坂社長ご推薦の映画です。この映画をご覧いただいた後、皆さんからご感想をいただきたいということですので、事前に用紙をお配りします」
研修課長の久我修の明るい声が響いた。
大画面ビデオに写されたのは『白い嵐』アメリカ映画だった。石井は懐かしく画面に見入った。随分前、もうすぐ取り壊されるという小さな映画館で、『ベラクルスの男』というメキシコ革命を題材にした映画と2本立てで上映されていた。石井の脳裏に思い出が細く白い光になって甦った。
実話を基にした映画だった。シーンはフロリダの港から始まる。ベテラン船長と数人のクルー、精神科医の妻を乗せた外洋クルーザー「アルバトロス」はガラパゴス往復5000kmの旅に出る。
参加しているのはそれぞれに家庭や精神に問題を抱えた少年たち。明るいカリブの海と漁師、キューバの警備艇。仲間やクルーたちとの争いや葛藤を経て、このサマースクールに参加した少年たちはやがて息の合ったチームになり無事目的地に到着。しかし、その帰りの航海で「アルバトロス」を嵐が襲う。やっとのことで助かった若い生還者たちにはその後、ベトナムの地獄が待っていた。彼らは石井と同世代だったはずだ。見終わった石井の思いは複雑だった。
そんな懐かしい思いのなかで画面を見つめる石井の頭にある筋書きが浮かび上がった。
「なるほど・・井坂さんらしいな」
石井は頭のなかで呟いた。石井個人としては書籍や映画を人に薦めるのはあまり好きではなかった。人にはそれぞれに価値観と好みがある。特別な場合を除き、個人的な価値を他人に共有するように求めるのは少なくとも大人のすることではない。しかし、会社というヒエラルキーの世界ではたいていのリーダーがその共有を強制しようとする。とくに大企業のトップになる人間は秀でた能力に加えて、それなりのアクの強さをもっているのが普通だ。アクの強さを言い換えると、そのまま自分の価値観を相手に押し付けることを意味する。井坂もその類の人間だった。
一方、社員はその強制に順応することで評価を得ようという本能をもっている。もし、これに勇気をもって反抗すると、管理者からは素直ではないというレッテルが貼られる。その途端、将来の道が閉ざされるということになる。つまり、組織ではリーダーは無意識のうちに優位に立ち、フォロアーは同じように受け身という構図になる。
たとえば今日のビデオの上映がそうだった。MCの久我修が上映に先立ち、明かりを消すようにいうと数人が立ちあがり、柱のスイッチに向かった。画面は大型だが、あくまでビデオであり、映画ではない。明るくても何の問題もない。しかし、誰もそんなことには疑問をもたない。黒い遮光カーテンが引かれ、暗くなった会場で浮かび上がるように迫ってくる画面に多くの視線が注がれていた。
(つづく)
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